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(idea2023年月10月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
室根町・釘子地区在住の方(90代)から聞いた「花泉の人たちが‘箕’を気仙沼に売りに行く時に、この辺りで1泊していった。帰りには塩と‘ベト(≒魚のアラ)’を持って帰って来た(のを見ていた)」というエピソードを元に、いわゆる「気仙沼街道」とは異なる「花泉~気仙沼」の「いにしえの道」を調査し始めた我々。前号では「花泉~気仙沼」を移動する背景やそのルートを考察してみましたが、今号ではその道中を実際に通ってみたレポートです!
(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)
■「箕」を「塩」に
前号でご紹介した通り、きっかけとなったのは「昭和20年前後、花泉の人たちが『小松峠』を通って気仙沼に『箕』を売りに行った。小松峠を抜けたら、『宿(室根町矢越の地名)』の辺りで一泊し、気仙沼からの帰り道には、『にがりがとれる状態の塩』と、『ベド(魚の頭や臓物)』を馬に積んで帰って来た」というエピソード。
戦中戦後の食糧難の時代、配給だけでは足りない「塩」を入手するために、普段は近隣の「市」で販売している「箕」を気仙沼まで持って行き、塩と物々交換(≒闇取引)していたのではないか……というのが我々の仮説です。
今ではあまり使用されない「小松峠」も、当時の花泉の人たちからすれば、小梨から室根に抜ける近道だったのではないかと推測します。
さて、室根から気仙沼には、笹森山にある、通称「笹塞峠」を越えたと思われ、峠を越えた先は「廿一集落」です。この峠には室根山に熊野神をお迎えした際の「熊野神勧請の路」とされる古道もあり、近年はトレッキングコース化を目指した整備活動なども行われています(ここで言う「笹塞峠」は、笹森山の中の、当時の峠道と思われる場所)。
その先は「手長山」を通過しますが、「手長山」の「南側」を通過したというのが、実は、今回のポイントです(熊野神勧請の路として現在考えられているのは北側)。
結果的に道中は推測の域を超えていませんが、文献調査及び現地調査を経て、我々が推測した「花泉~気仙沼」の、「箕と塩を交換してもらう道」の全ルートをご紹介します!
花泉から持って行った「箕」がどのようなものか、はっきりとしたことは分かりませんが、
このようなタイプの箕が当地域で作られていたと思われます(この箕は当センタースタッフの実家で昭和期に使われていたもの)。
花泉→気仙沼
「箕と塩を交換してもらう旅」
推測ルート
文献等を参考に、当センターとして推測するルートが、以下です。
奈良坂(花泉) → 宿部落(老松) → 日形の渡舟場 ~舟で対岸へ~ → 黄海(藤沢) → 藤沢(藤沢) → 徳田(藤沢) → 小梨(千厩) → 釘子(室根) ~1泊することも~ → 笹塞峠 → 廿一(気仙沼) → 手長山 → 鹿折地区
越えなければいけない村境は9つ(と推測)。村境の多くは峠や川などであり、約60㎞の旅にはいくつもの難所があったことでしょう。我々が実際に通ってみたのが「徳田村と小梨村の村境」「小松峠」「笹塞峠」「廿一集落~手長山~金成沢~和野(全て現在は気仙沼市)」という4箇所です。笹塞峠を抜けた後のルートとして、文献では重要幹線であり鉱山道路としても活用された「落合道路(落合部落経由で旧新月村と矢越村方面を結ぶ)」が紹介されていましたが、遠回りになることと、いわゆる「気仙沼街道」に合流してしまうため、「闇取引」には危険なのではないかと推測。別のルートとして「廿一集落~手長山~金成沢~和野」を設定しました。
総延長60キロ弱!
花泉から気仙沼まで「箕」と「塩」を交換しに行った道
黒の太線が我々の推測する道。※黒の細線は村境 ※黄色の点線が下記等高線図の赤い点線部分
特筆すべきは、上項でも記載しましたが、「手長山」の「南側」を通過したことです。「熊野神勧請の路」として考えられている古道は、手長山の北側を抜ける道ですが、室根史談会の方から「とある文献に、熊野神勧請の際、『手長山に登って室根山の位置を確認した』という主旨の記述がある」という情報が。
この情報提供者が言わんとすることは、熊野神は気仙沼から室根山に向かいますが、気仙沼から手長山を越える際、北側を通っていれば、わざわざ手長山に登らずとも室根山が見えたはずで、登って確認したということは、南側を通行していたのではないか?ということ。
気仙沼から室根山に向かうには北側を進みそうなところを、南側から向かったとなれば、何か意味があるのではと考え、南側を通ってみることにしました!その結果は……!?
「笹塞峠」から「手長山」の南側を抜け、「金成沢」から「和野」を通過し、現在の284号線に合流しましたが、そのルートを標高が分かる地図上に落としてみると、「鞍部(山と山を結ぶ稜線上で一番低くなっているところ)であることがわかります(「地理院地図」の「3D」機能を使って見てみると、よく分かる)。
かつ、沢沿いの道でもあることから、近道ということだけでなく、迷う心配の少ない、安全な道だったのではないかと推測。現在は「林道 手長洞木線」となっており、「廿一簡易水道浄水施設」なども位置しています。
手長山の北側は、尾根(沢)を何度か横断することになるのかも……。
1⃣
渡舟場(日形村/現日形)
北上川には複数の渡舟場があった。日形の「中神渡船場(公設)」は「初代北上大橋」がかかったことで、昭和13年に廃止になっているが、日形の町裏と黄海の小日形を結ぶ渡舟は戦後も続いていた。
2⃣
黄海村(現藤沢)
「七日町」「二日町」などは「市」や「宿場」があり、賑わっていた(現在の「花泉藤沢線(県道21号)」沿い)。写真は「二日町」。
3⃣
徳田村(現藤沢)
道標
4⃣
小松峠
現在の小松峠は、周辺田畑の所有者などしか通らない。
5⃣
宿集落(現室根)
宿場ではないが馬屋や小屋で人を泊めていた。賭博が行われていたという噂も…。
6⃣
笹塞峠
笹塞峠に設置された
「紀州熊野神 室根山勧請の路」の標柱。この標柱の周辺を整備している。
7⃣
廿一から林道に入る道。
7⃣
金成沢を流れる金成沢川。この川沿いを歩いた?
8⃣
鹿折地区
昭和期まで塩田があったという話も。
8⃣
内湾地区
近世から昭和まで気仙沼湾の中心的機能を担っていた。
ゴール地点は果たして……?「塩田」と考えれば鹿折地区ですが、「市」的なものを考えれば、内湾地区か?
<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同
気仙沼編さん委員会(1990)『気仙沼市史Ⅲ 近世編』
気仙沼市総務部市史編さん室(1996)『気仙沼市史Ⅴ 産業編(上)』
気仙沼市史編さん委員会(1997)『気仙沼V 産業編(下)』
室根村史編纂委員会(2004)『室根村史 下巻』
発/東磐史学会長 千葉房夫 編/村上光徳(1979)『東磐史学 第4号』
発/東磐史学会長 千葉房夫 編/村上光徳(1979)『東磐史学 第12号』
那須光吉(2001)『岩手の峠路 地図から消えた旧道』
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。