※お願い※
記事内の写真や資料は、当情報誌での使用について許可をいただいて掲載しております。
無断での転載などの二次利用はご遠慮ください。
(idea2025年1月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
現在、我々が食している作物の多くが渡来したもの。長い年月が経ち、色々な種類が畑で栽培され、その地域の風土に合わせて固定種と化したものもありますが、当地域においてはどんな作物が栽培されてきたのかを調査。全国的な作物の普及と、食文化の移り変わりを調査しながら、今では当たり前に食卓に並ぶようになった「生野菜」と「日本の畑作」の関係性について考察してみました。 (記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。)
■日本原産の野菜
日本原産の野菜(=食用とする植物の総称)は、独活(うど) 、芹(せり)、三つ葉、蕗(ふき)、山葵、自然薯など、数種類ほどしかありません。現在、日本で作られている作物(=田畑で作る植物)の起源は明らかにはなっていませんが、北緯20度~40度にある山岳付近の「農耕文明が進んでいた地」とされる説が多いです。
野生植物は、種子や球根が風や水によって他の土地に運ばれたり、動物が種を食べたりすることで移動し繁殖していきますが、作物は、宗教・制度・学問・芸術などの伝播と共に、一つの文化財として、人の手を通して普及していきました。
日本の場合は、中国・朝鮮半島・北アジア・南の海を経由して作物が渡来したと推測され、カラシナ、キュウリ、ゴボウなどは北廻りのルートで渡来し、安土桃山時代以降は、南蛮船によって西欧諸国の文化と共に、カボチャ、ジャガイモ、トウガラシ、トウモロコシが日本に伝えられました。
■外国種苗の普及
当市域において、作物の栽培時期を調べると、『大東町史(上)』には、宝暦5年(1755年)時点で、畑いも※、大根※、蕪※、牛防※、人参※、さつまいも※、くりいも※(水分の無いさつまいも)、りうきふいも※、ゑこいも※が百姓の間で栽培されていたことが記載されていました。
※=引用の文献の表記のまま記載しています。
他文献でも、米、大麦、小麦、大豆、小豆などが栽培されていたことは読み取れましたが、現在主流となっている外国の作物(ピーマン、ブロッコリーなど)が、いつ頃から栽培され始めたのか、当センターでもヒアリング等を行いましたが、明確な情報は掴めませんでした。
それでは、今食べられている外国の作物は、全国的にどのように普及していったのでしょうか?
明治4年、農業奨励の政策として、「農」の分野を強化する「勧農政策」を重要視していました。明治7年、「国内でも風土や気候が違うため、1か所の試験場だけのデータでは全国に普及させるのは難しい」と考えた政府は、東京以外の府県に外国種苗の試験栽培を依頼することに。
この依頼での栽培は、全国的に良い結果を残せなかったとの記録がありますが、明治初期には、現代のように外国種苗の扱い(育て方、植物と風土の相性等)がわかっていない部分が多かったため、例え栽培に失敗したとしても、その原因を分析するデータを収集できたことが、外国の作物を全国に普及させるための第一歩になりました。
また、この政策をきっかけに各地で植物試験場等が設立、明治末期には化学肥料や化学合成農薬も普及し、より外国の作物を育てやすい環境に変化していきました。
◆西洋の野菜「ルタバガ」=「矢越カブ」 ルーツは種売りの行商から!?
写真は小野寺寛さんが育てている「矢越カブ」の畑。室根町にある産直「旬菜館」で販売される「かぶ蒸かし」の材料にもなっています。
明治初頭、当地域でも野菜種を売って歩いていた「種売りの行商」をしていた人がおり、室根町矢越にいた行商人が売った「タマ菜(キャベツ)」の種の中に「ルタバガ」の種が入っていて、その種を育てたことが矢越カブの始まりだと言われています。
一時期、矢越から姿を消してしまった「矢越カブ」ですが、宮城県気仙沼市の大島で栽培されていることがわかり、何度か種を分けてもらって復活しました。
■食文化と共に移り変わる「畑作」
上記で述べたように、国策をきっかけに外国の作物が全国に普及していきました。一方で、現代の日本で一般的に食べられている「キャベツ」は、江戸初期にはすでにオランダ人によって国内へ持ち込まれた記録があるものの、本格的なキャベツの栽培は明治以降となっています。
明治維新で全国的に西洋化が進んでいった中、外国の作物が食卓に並ぶまでは時間がかかったようですが、そのワケとは……!?
考えられる原因は……
外国産の作物の食べ方がわからなかった!?
外国では、作物の「生食文化」が基本にありましたが、日本にはその「生食文化」がなく、サラダにして食べるということに抵抗があったのです。
サラダを美味しく食べるための「マヨネーズ」「ドレッシング」の入手も困難でしたが、日本の作物に置き換えたレシピなども残っており、試行錯誤していた様子が伺えます。
なぜ日本に「生食文化」がなかったのか考察!
✓寄生虫に汚染された環境だった
日本は、鎌倉時代から昭和35年頃まで、約600年以上、作物の肥料に下肥(人間や家畜の糞や尿)を使っていたため、土壌や人間の体内は、寄生虫(回虫など)に汚染されていました。そのため、加熱処理などを施す必要があり、生食文化が定着しづらかったのではないでしょうか?
大正に入り、都市部の洋食店などではサラダが食べられていましたが、その店内では土汚れなどを落とすために作物を洗っていたため、汚染率は低かったと推測。農村地域では、当時水も貴重だったため、「生食のために洗浄する」という文化はまだ根付いてなかったと考えられます。
✓昔の作物は灰汁があるものが多かった
植物は、動物や昆虫に食べられないように、不味成分や毒を持っているものも多く、長い年月をかけて品種改良して、食べられる「作物」へ変化させ、普及していったと考えられます。
現在、食卓に並ぶ野菜も、最初は苦みが強いものが多かったはず。茹でるなどの加熱によって、灰汁も抜け、繊維も柔らかくなり食べやすくなったという経緯があり、「野菜は加熱するもの」という考え方が根付いていました。
野菜の主な調理方法は「煮る・焼く・茹でる」だった!
現代の「生食文化」から見える「畑作」とは?
現代の畑作の野菜には、野外の畑で栽培した「露地野菜」と、ビニールハウスやガラス温室などの施設を利用して栽培した「施設野菜」があり、季節を問わず各家々や外食産業でも、「サラダ」としてフレッシュな野菜を生で食すことができています。
これはもちろん、生産者の努力による土壌の改善もさることながら、明治期に国が「農」の分野の強化策を投じたことで、外国の作物を普及するための取り組みから生まれた賜物と言えるのでしょう。近年においては、化学肥料や化学合成農薬を使用しない、「特別栽培農産物」の生産も多くなり、さらに畑作は進化し続けるのかもしれません。
◆千切りキャベツは生食文化の始まり?
銀座の老舗洋食店「煉瓦亭」(明治28年創業)はフランス料理店ですが、創業当時の日本人は油分・バターの多い料理に馴染みがなく、試行錯誤の末、牛肉ではなく豚肉を使用した「ポークカツレツ」を開発。明治37年頃、これまで付け合わせとして出していた「バターでソテーした温野菜」を 「千切りキャベツ」に代えて提供してみたところ、「カツレツをさっぱりと食べられる!」ということで日本人に好まれ、都心で定着していきました。
◆スタッフがやってみた!
文献『浜横沢郷土教育資料』で発見した、「甘藷(=さつまいも)」の「三倍酢※」を使った調理で、スタッフが再現してみました!現代のさつまいもでも美味しく仕上がりました♡
※=文献表記のまま記載しています。
ホクホクで甘さと酸味が丁度良いお味♪
<作り方>
①生のさつまいもを1口サイズに切る。
②切ったさつまいもを鍋に入れ、さつまいもが隠れる程度に三杯酢(★)を入れる。
★三杯酢=1:1:1の割合で酢・醤油・砂糖またはみりんを混ぜ合わせたもの
③水気が無くなるまで火を通して完成!
当時は火が貴重だったはず!そのため「ふかす」過程は無く、「生から煮たのではないか?」と推測!
<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同
大東町(1982)『大東町史 上巻』
浜横沢小学校(1940)『紀元2600年記念 浜横沢郷土教育資料』
東磐井郡釘子尋常小学校(1940)『紀元二千六百年記念 岩手縣東磐井郡矢越村』
折壁村立折壁青年学校(1940)『紀元2600年誌 折壁村(東磐井郡折壁村郷土資料教育資料)』
黄海村史編纂委員会(1960)『黄海村史』
磐清水村編纂委員会(1957)『磐清水村誌』
奥玉村誌「まとめる会」実行委員会(1988)『奥玉村誌』
國雄行(2014)『内務省勧業寮の成立と勧農政策』
青葉高(2013)『日本の野菜文化史辞典』
ケンコーマヨネーズ株式会社 商品開発本部 サラダ研究所 西田毅(2019)『家庭科資料63号 サラダから見た野菜の食べ方の変遷』
東北農政局.「東北農業の歴史・歴史年表」.https://www.maff.go.jp/tohoku/nouson/seibi/rekisi/index.html(2024/12/25)
歴史地理学.「明治末期における岩手県の農業政策と耕地整理事業 阿部和夫」.http://hist-geo.jp/img/archive/histricalgeograpy118.html(2024/12/25)
日本経済新聞.「とんかつにキャベツ コック出兵で変わった食卓」.URLはコチラ(2024/12/25)
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。