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(idea2022年月7号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
昭和40年代まで、当地域における多くの家庭が送っていた「電気冷蔵庫のないくらし」。電気冷蔵庫の導入前に「氷式冷蔵庫」を使用していた家もあり、前号では当時の「氷」事情にスポットを当てました。続編となる今回は「冷蔵庫のない時代の『食』事情」にスポットを当て、冷蔵庫がない中でどのような食生活を送っていたのか、現在の食生活との根本的な「考え方・感覚の違い」を学んでみました!
※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。
■食料自給率が高かった!
電気冷蔵庫のない時代=昭和40年代以前は、「生のまま食材を長時間保管する必要のない生活」が送られており、現代とは大きく食生活が異なっていました(前号参照)。
当時(戦中を除く)の一般的な食事は次のようなものだったようです。
【朝食】主食+一汁二菜
・「麦飯」や「かて飯」
・自家製味噌の味噌汁(出汁不使用)
・「漬け物」「おひたし」「煮付」「納豆」「魚」等
【昼食】
・握飯
・主食のみの弁当(梅干しや味噌漬けがのる程度)
【夕食】「代用食」が基本
・「うどん」「はっと」「すいとん」等、小麦を使ったもの
・「そば練り」「そば団子」「そばきり」等、蕎麦を使ったもの
・「しなもち」「すなもち」等、粉にしたくず米を使ったもの
基本的には「主食+一汁二菜」というスタイルですが、「二菜」の中身が野菜や大豆加工品中心。野菜も今ほどのバリエーションはないので、根菜や白菜、青菜に加え、春に採取した山菜を加工して貯蔵、年間を通して食べられるようにしていました(もちろん根菜類も加工保存)。
魚や肉などを食べることは少なく、食べたとしても魚は塩漬けや干物になったものが基本で、「生魚」を食べるとすれば、川漁で採ったもの(鮎やマス、ウナギ等)。
肉に関しては、罠で仕留めたウサギやキジを食べたという話も多く、中には狸を食べていたという話も!また、鶏を飼育していた家では、普段は卵を食べながら、何かの行事などに合わせて鶏肉もいただいたとのこと。
大豆加工品はその多くが自家製。味噌はもちろん、醤油や納豆、豆腐までも自家製だったという家は少なくありません。納豆を冬場にコタツの中で作ったという思い出話は「農家あるある」とも言えますが、驚くべきは豆腐。気仙沼から来る行商から購入(≒物々交換)した塩から「にがり」を取り出して作っていたのだとか!
その他、行商人が定期的に来ていたため、「必要な食材を必要な分だけ」という暮らしが成り立っていたようです。次項ではより具体的にこれらの食材の入手ルートや保存方法をご紹介していきます。
【ミニコラム】 生活改善運動と農協婦人部
昭和20年代頃まで、多くの農家の台所は衛生的とは言えない環境でした。煙突のない竈に薪をくべて火をおこすため、竈から土間の中には煙やススが飛び、調理台も膝を床につけた状態で行う高さ。そのため、戦後になると、煙突のついた「文化竈」や水道、立ったまま作業ができる「流し」や「調理台」の普及が叫ばれるようになり、全国的に「生活改善運動(台所改善運動)」が展開されます。
地方の農山村部では、その流れが昭和30年代以降にやってきて、電気の普及の時期と重なったこともあり、台所改善運動のゴールの一つのような位置づけで「電気冷蔵庫」の導入がブームに。しかし、電気冷蔵庫を導入したところで、上記のように「衛生環境」への知識が乏しい状態であり、食中毒等は頻繁に発生していました(「冷蔵庫に入れれば安心」という考えに結びついてしまった)。
そこで求められたのが正しい食生活・衛生環境に関する知識普及であり、その役を担ったのが昭和23年頃から全国各地で結成され始めた「農協婦人部」です。昭和26年には「全国農協婦人団体連絡協議会」が結成され、情報共有をはかりながら、各農協婦人部が講座や料理教室を開催するなど、「食生活」の幅を広げる大きな一助となりました。
昭和40年以前の食生活を見える化してみた
「冷蔵庫のない時代はどうやって食品を保存していたのか」という、現代人の素朴な疑問から始まった今回の調査。結果的には「冷蔵する必要のある食品はあまり食べていなかった/入手した日のうちに食べた/加工して保存した」という、現代の「数日間は冷蔵保存が当たり前」という感覚とは根本的に異なっていたことが判明。
また、そうした暮らしを送ることができた背景としては、自家生産していた食材が多かったり、行商人などが定期的に山間部にも来ていたことなどがあげられます(ちなみに昭和40年度の日本の食料自給率(カロリーベース)は73%なのに対し、令和2年度は37%)。その具体的な食材入手ルートや保存方法を見える化してみました。
1 食材の入手ルート
入手ルートを大きく分けると以下のように分けられます。※行商等からの「購入」に関しては「物々交換」と混在している可能性があります。
自家生産・製造 | 購入(行商等) | 物々交換 | 狩猟・採取 |
米・麦 根菜類(大根、人参、牛蒡、馬鈴薯、里芋等) 葉物野菜(白菜、青菜等) 大豆・味噌 鶏(卵、肉) |
海産物(魚の干物、塩シャケ等、海藻類、貝) 肉(豚・牛) 砂糖 氷 |
米と塩 炭と塩 米と海産物 米とかつお節 ※塩は気仙沼から「馬背」でやって来た |
川魚(鮭、鱒、鮎、鰻等) ウサギ・キジ 山菜・きのこ 木の実(サルナシ等) 果実(栗、柿等) ※栗や柿は家の周りに植えていた |
醤油 豆腐・おから・納豆 牛(牛乳・肉)・豚・鯉 |
▲旧町村で発刊している町史・村史や当地域の生活に関する各種文献に加え、当センタースタッフが当市在住の中高年層にヒアリングした結果を元に整理しました。※地域性や居住エリア(町場/山間部)によって違いはあると思います。
2 食材の保存方法
上記ルートで入手した食材は「その日のうちに食べる」か、以下のような方法で中長期的に(特に冬場に向けて)保存していました。
埋蔵法 | 乾燥法 | 冷凍乾燥法 | 塩漬け・味噌漬け等 | その他 |
根菜類 ネギ 白菜 茄子・胡瓜 栗 |
根菜類(切り干し) ずいき きのこ 菊の花 よもぎ |
凍み餅 凍み豆腐 凍み大根 |
野菜(塩漬け=漬物) 肉(塩漬け、味噌漬け) 魚(塩漬け、酢漬け) 山菜 |
ムロ(土間の中、浦山、石灰石の穴場) 井戸 貯蔵蔵 |
▲「保存」の考え方として「野菜が不足する冬場に向けて」という視点と合わせて、「冬場に食材を凍らせてしまわないように」という視点もあります。そのため、常温保存できる根菜類でも、土の中に藁やムシロなどと合わせて埋蔵していました。また、茄子や胡瓜については「清潔な砂一升と塩一升とをまぜて、その中に入れて置くと春先まで変色しない」という驚きの方法も!
▲山菜は塩漬けにして長期保存。現在も一般的に食される山菜の他、「さいかちの芽」「うるしの芽」「やまごぼうの葉」なども食されていたとする文献も。写真は当センタースタッフ宅のフキの塩漬け。
▲夏場の食材保管には井戸や沢などの冷水が使用された。特にこの写真のような、井戸から汲み上げた水が溜まる洗い場などでスイカやトマトなど夏野菜を冷やしていたとのこと。写真は当センタースタッフ親類の家(萩荘)。
実験!肉の常温保存は本当に可能!?
前号では「氷」の保管について実験をしてみましたが、今回はお肉の常温保存が本当に可能なのかを実験してみました!ヒアリングでは雉やウサギを塩漬けして保存したという話が複数聞かれたものの、さすがに入手が難しいので鶏肉での実験です(笑)
塩漬けにした鶏肉が常温環境でどれくらい保存できるのか、そして塩漬けにしたお肉はどのような味になるのか、誌面では割愛させていただいた実験結果をご紹介します!
以下、実験の詳細です(誌面未掲載内容)。
【材料・道具】
・鶏肉(皮を取り除いた状態で240g)
・塩 (18日間での合計使用量約270g)
・キッチンスケール
・ラップ
・キッチンペーパー
・ポリ袋/保存袋
【実験概要】
①生肉は「塩蔵」で長期保存が可能なのか(どれくらいの期間可能なのか)
②「塩蔵」した生肉はどのように調理し、どのような味なのか
※「塩蔵」とは食品の保存法の一つ。
魚介類、畜肉、野菜などの腐敗しやすい食品を食塩によって保存すること。
古くは前16~前15世紀ころからフェニキア人、ギリシア人によって行われており、日本においても1000年以上も前から魚介類の保存法として行われていた。
塩蔵法には、食塩を直接食品にふりかける「まき塩法」と、食品を食塩水の中に浸漬(しんし)する「立塩法」とがある。
「まき塩方」は食塩の量が少なくてすみ、脱水作用が早くおこるなどの長所があるが、塩濃度が不均一になりやすく、油脂を含んだ食品では酸化による変質を受けやすい。(『世界大百科事典 第2版』「塩蔵」の解説参照)
【工程】
1、下漬け(キヅケ)
余分な水分や臭みを出すための作業
<1日目(6月7日)>
・皮を取った鶏肉240gを用意し、鶏肉に対し15%の塩をまぶす。
・塩をまぶした鶏肉を、空気に触れさせないためにポリ袋に入れる。
・空気を抜き、冷暗所にて保管する(今回は電源を抜いた冷蔵庫をムロ代わりに使用)
<2日目(6月8日)>
・水分が抜け始めた。
・ポリ袋内に溜まった水分を捨て、表面を覆うように再度塩をまぶす。
・水分を吸い取るためにキッチンペーパーで包んだ上で、ポリ袋に入れ、冷暗所にて保管する。
※腐敗の原因となる微生物(腐敗菌等)は水分が少ない所では活動できず、乾燥や塩蔵等によって水分を抜くことで、食品の長期保存が可能となるらしい。
<3日目(6月9日)>
・2日目のようにポリ袋内に水分が溜まりはしなかったものの、キッチンペーパーは湿っている。
・キッチンペーパーを取り除いた状態で重さを量ってみると、塩蔵前と比べて25gの水分が抜けていた。
・キッチンペーパーを交換し、塩をまぶし、ポリ袋に入れて冷暗所にて保管。
※この頃には鶏肉は柔らかくなく、ゴムのような状態になっていた。
※鶏肉の生臭さは薄くなり、塩の香りが強くなっていた。
<4日目(6月10日)>
・3日目と同様の工程を行った。
・3日目からさらに2gの水分が抜けていた。
※水分がかなり抜けたことで、ハムやジャーキーのような見た目になってきた。
<5日目(6月11日)>
・3日目と同様の工程を行った。
・4日目からさらに1gの水分が抜けていた。
<7日目(6月13日)>
※6日目の12日は日曜日だったため計測なし。
・3日目と同様の工程を行った。
・5日目からさらに5gの水分が抜けていた(6日目は計測等を行っていない)。
・これまでの工程により、計33gもの水分が抜けた。
2、本漬け
余分な水分が大方出てから、本格的に漬けこむ作業。
<7日目(6月13日)つづき>
・頻繁に水分管理をする必要がなくなったと判断し、「本漬け」の工程へ。
・肉の表面の色が見えないくらい、多めに塩をまぶす。
※まぶしてから計測したところ、たまたま肉と同じ207gを使用していました!笑
・保存袋の空気を抜き、冷暗所にて保管。
<8日目(6月14日)>
・塩が湿っていることが確認できる。
※本漬け工程中につき、目視のみ。
<9日目~11日目(6月15日~17日)>
・塩が湿って、溶けているようにも見える。
※本漬け工程中につき、目視のみ。
3、実食
実験開始から18日=鶏肉の塩漬けを常温で保存し始めてから18日目で、いよいよ実食を決意。
※実験を続けることもできたのですが、実食のレポートを書きたかったがために、ここで切り上げました(笑)
①塩漬け肉を切ってみる
・肉がかなり締まっており、切りにくい!ゴムを切っているかのような、これまで味わったことのない感触。通常の鶏肉とは全く異なる感触になっていました。
②塩抜きをしてみる
・90度のお湯につけて塩抜きをすることに。
※塩抜きの方法は、「塩水につける」「酢や酒を使う」など、様々あるようですが、今回は最も早く塩が抜けそうなお湯での塩抜きにしました。
・1時間毎に90度のお湯を入れ替えていきます。90度のお湯に入れたため、火が通ったような白濁食になりました。
③焼いてみる
・お湯による塩抜きによって半ば火は通ったよな気もしますが、念のため焼いてから食べることに。
・フライパンに油をひかずに焼いてみました。
・ちなみに……味の検証のため、塩抜きをしないで取っておいた肉(塩漬けの塩だけを洗い流した状態の肉)も焼いてみました。
※塩抜きをしていない肉からは、焼いている過程で塩と油のようなものが出てきました。
④食べてみる
③の肉をいざ実食!
・左の皿が塩抜き後の肉、右の皿が塩抜きをしない状態で焼いた肉。
・塩抜きをした方の肉はパサパサとした感じになり、塩抜きをしていない肉は焼いたことで表面に塩の結晶が!!!
・以下、実際に食べてみたスタッフ3人の感想をまとめました。
<塩漬け→塩抜きをした鶏肉>
・水分がほとんどないため、かなり硬い。
・食感だけで言えば鮭とばやジャーキーに近いが、味は全くない。
→何か調味をしないと美味しくは食べられない。
<塩漬け→塩を洗い流しただけで塩抜きをしていない鶏肉>
・少し舐めただけでご飯が進むほど強烈にしょっぱい!
・しょっぱさの中に鶏の旨味・脂分も残っている。
→汁物の出汁や、調味料の一つのような位置づけで料理に使用すると、美味しく食べられるのかもしれない(当時はそうだったのでは?)。
4、まとめ
・「塩漬け」によって「常温」で「肉」を保存することは確かに可能だった!
※少なくとも18日は保存可能なことは実証できた。
・塩漬けされた肉は、そのままの状態で食べることは難しく、かつ、上手く塩抜きをしないと、美味しくはない。
※塩抜きの方法や、塩抜きせぬままに調理する方法は研究する必要がある(当時の情報が残っていない)。
前号「冷蔵庫のない暮らし①」はこちら
<参考文献> ※順不同
真滝村誌復刻委員会・蜂谷艸平(2003)『復刻 真瀧村誌』
松本博明編(2011)『一関市厳美町本寺の民族』一関市
弥栄中学校編(1973)『郷土誌 弥栄の里』
磐清水村誌編纂委員会(1957)『磐清水村誌』
門崎村(1957)『門崎村史』
東山町史編纂委員会(1978)『東山町史』
田河津公民館(1956)『社会教育・民族文化財伝承 ふるさとの伝承活動』
鈴木軍一(1990)『郷土教育資料改編 田河津村誌』
岩手県農業改良普及会(2011)『食べよういわて』
奥玉村誌「まとめる会」実行委員会編(1988)『奥玉村誌』社団法人奥玉愛林公益会・奥玉老人クラブ連合会
黄海村村史編纂委員会編(1960)『黄海村史』岩手県藤沢町役場
↓前回調査で使用した文献(参考)
花泉町史編纂委員会(1984)『花泉町史(通史)』/大東町(2005)『大東町史 下巻』
千厩町史編纂委員会(1993)『千厩町史 第三巻 近世2』
磐清水村誌編纂委員会(1957)『磐清水村誌』
東山町史編纂委員会(1978)『東山町史』
千厩町役場総務課(1968/1977)『町勢要覧「せんまや」』
千厩町役場企画商工課(1989)『1989岩手県千厩町勢要覧資料編』
岩手県藤沢町(1966)『藤沢町綜合調査』
大東町役場(1957/1958)『大東町勢要覧』
岩手県大東町(1960)『大東町町勢要覧』
岩手県大東町役場(1961/1962/1963/1964/1966)『大東町勢要覧』
岩手県大東町(1967/1968/1970)『大東町勢要覧』
岩手県大東町役場(1971)『大東町勢要覧』
大東町(1973)『町勢要覧 だいとう』
大東町役場(1975)『大東町勢要覧 町制20周年』
大東町(1977/1979/1982/1983/1984/1985)『大東町勢要覧』
大東町社会科学習資料編集委員会(1976)『わたしたちの大東』
東山町(1988)『広報 ひがしやま 縮小版 創刊号(昭和31年)~第347号(昭和63年)』
東山町役場(1978)『東山町制20周年記念町勢要覧 ひがしやま』
東山町役場(1988)『東山 町制施行30周年記念誌』
一関市役所(1978/1981/1983)『いちのせき市勢要覧』
一関市(1949/1951/1952/1953/1955/1958/1960/1961/1963/1965/1966/1967/1968/1969/1970/1972/1973)『いちのせき市勢要覧』
室根村教育研究所(1997)『わたしたちのむろね 小学校社会科副読本図書』
室根村(1982)『広報 むろね 縮刷版図書』
室根村(1975)『村政20周年の歩み』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております