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(idea2017年9月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
前回は、長屋門とは何か?地域内には、どのくらい長屋門があるのか?長屋門と中門は同じ意味なのか?など 調べた結果を掲載しました。
今回は長屋門(中門)のあるお宅にお邪魔し、間取りや当時の使われ方と現在の使われ方について調査してきました。
東山町松川地区 千葉さん宅の長屋門
注:イラストは調査した中門を基に総合し独自に作成したものであり、聞き込みしたすべての中門がイラストのような間取りになっているものではありません。
【 現在の様子 】
今回、長屋門(通称中門:以下「中門」)の間取りについて、実際に中門を見せていただきお話しを伺ったのは 16軒。それぞれのお宅で「地域の中で同じような門は他にもありますか?」と伺ったところ、「3~4軒くらいかな?」という回答が多く、調査したお宅を含め市内には少なくとも60軒の中門があるのではないかと予想できました。
東山町の田河津振興会会長のお話によれば「明治大正 時代、田河津の庄屋・本家と呼ばれる家には中門があった」とのことで、各地域での調査を総合しても、中門を建てた時期は江戸時代末期~明治時代初期が最も多く、庄屋や本家、大地主で田畑を多く所有している家柄に中門があったようです。
中門の役割や利用方法としては、作業場(米つき機械や農耕機の保管場所含み)、きっづ(籾蔵)、門を挟んで家畜を飼う部屋だったという回答が多く、2階のある中門では小作人たちが作った米などの保管場所のほか、人が住んでいた(1階に住んでいたというお宅もあり)、養蚕・葉タバコの作業部屋などとして使用していたとの回答がありました。ちなみに、花泉地域の熊谷さん宅では、中2階があり、そこに相続とり(その家の財産の一部をもらうまで住み込みで働く人)が住み、穀物が盗まれないよう番人的な役割も担っていたのだそうです。
聞き込みによれば、他地域でも「使用人や奉公人、所帯を持った働き手の住まいだった」というお話しも多く、2階建ての中門に限らず、人の住まいとして使用されていたこともわかりました。
現在は、中門を車庫や物置、改装して家主の趣味部屋などに利活用しているお宅が多く、市外では歴史的建物を活かしたカフェやギャラリーとして、人の集える施設に生まれ変わった中門もあるようです。