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(idea2023年月11月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
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※誤りがあった箇所は以下の通りです。
「磐井郡西磐井之内二関村御検知帳(寛文13年)」→「磐井郡西岩井之内二関村御検知帳(寛文13年)」
江戸期~明治8年まで存在した「二関(にのせき)村」をご存知でしょうか?明治8年に「三関村」とともに「一関村」に編入され、その歴史を閉じました。一般的に、藩政時代に存在した村名は、小字や大字として残ったり、地名としては残らずとも、通称として住民間で使用されたりしますが、現在「二関」と呼ばれる場所は存在していないようです。大字として残っている「三関」に対し、存在したことを知らない人が多い「二関」。その実態はいかに……!?
(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)
■「城下町」の「百姓」たち
「二関村」は明治8年まで存在した村ですが、その起源は分かっておらず、二関村が存在したことが確認できる史料もほとんど残されていません。
二関村が位置したとされるのが水害常襲地帯の磐井川流域だったことや、家屋や町の構造上(後述)、火事も多発していたことが、史料が少ない原因と考えられます。
二関村は現在の一関市大町をメインに、北は一関修紅高校などを含む東花王町まで(厳密には川の半分まで)東はJR一ノ関駅や旧NEC跡地なども含み、現在の大字三関との境までと考えられます。西に位置するのが「一関村」です。
この一関村は釣山北麓に「一関城」を構えた「一関藩」の城下町です。現在の大字「城内」や「田村町」が一関城の「城内」で、その周縁に当時の「百人町(足軽屋敷)」「職人町」が築かれており、一関村は現在の「地主町」等を指します。「安永風土記」では二関村に属していた「大町」も、時期によっては一関村領となっていたり、一関村・二関村とで「一関城下」を構成していたような状態です。
そんな二関村は、商人の町でした。メインとなる大町は奥州街道が通り、その両沿いに隙間なく住居(店舗)が連なります。その間口は平均6間、奥行きは27~28間と縦長であり、仙台城下の町屋敷の基準(通称「一軒屋敷」)と類似しており、仙台城下にならった屋敷割が行われたと考えられているようです。寛文13年(1673)に63軒だった町屋敷は、幕末期には113軒と倍近く増加し、明治初期には間口3間ほどの「半軒屋敷」が出現しています。
城下町の一部であり、一般的には「町人」の身分にありそうな二関村ですが、身分は「百姓」に近く、田畑を有し、年貢負担の義務を負っていたとか。田畑は現在の一関駅東口周辺に展開されていたようです。
では、具体的に二関村のエリアを確認してみます。
「二関村」が位置していたエリアを検証してみた
現存する絵図に、「一関村」「二関村」「三関村」が各村単独で描かれたものはありません。周辺の村や3村が一緒に描かれた絵図は存在するものの、絵図によって各村のエリアが異なっていることも。
そこで、元禄12年(1699)に生江助内が描いた地図を明治21年に千葉美胤が謄写した『磐井郡西岩井絵図(写)』を基に、文献に記載された情報も加味しながら、編入直前の「二関村」エリアを検証してみました。※あくまでも推測です。
『安永風土記』に記載されている村境
■一関村
南:当郡鬼死骸村境当村分千刈田と申所より
北:当郡前堀村境当村分源田淵と申所迄
東:当郡三関村境当村分さいみ坂と申所より
西:当郡下黒沢村境当村分新山坂と申所迄
■二関村
南:三関村境当村分岩井川端下谷起と云所より
北:前堀村当村分岩井川端片瀬片川の所迄
東:三関村境当村分赤川と申所より
西:一関村境当村分大町と申所迄
■三関村
南:牧沢村境当村分矢ノ目沢より
北:前堀村境当村分岩井川迄
東:滝沢村境当村分とうおう丁場と申所より
西:一関村境当村分左衛門長根と申所まで
『磐井郡西岩井絵図(写)』に描かれた二関村のエリアを現代地図(今回はGoogleEarthを使用)におおよそ重ねてみたのが上の図です。「おおよそ」と言ったのは、絵図では一関村に入っていた「大町」を、今回は二関村に入れてみたからです。
『安永風土記』に記載された村境を見ると、大町までが二関村になっており、そうすると一関村が飛び地のような状態(上図の一関村①②)になります。上項でも記載したように、一関村・二関村とで「一関城下」を構成しており、大町は入会(いりあい)状態だったようです。
三関村との村境は「下谷地」「赤川」と記載されていますが、現在地図では不明。「外谷起」「北谷起」「南谷起」という地名が連なるエリアがあるため、「下谷地」はこのあたりを指すのではないかと推測します。絵図では街道を境に三関と面していたようなので、近しい道で今回は境にしてみました。
なお、一関村・二関村のエリア内には「百人町」「五十人町」「職人町」など城下町由来の町があります。百人町・五十人町は足軽が居住するエリアであり、検地帳などでも別に項目立てされます。
また、一関村も二関村も、居住エリアはかなり凝縮されています。右地図で「一関村①」と示した場所は、宿場である地主町程度で、それ以外のスペースには居住していません(村境が「源田淵」とされていることから、湿地だった可能性も)。二関村も、次号でご紹介しますが、居住地はほぼ大町であり、それ以外のエリアは田畑です。
ちなみに『安永風土記』に記載されている各村の家数や人口は下の通りです。
家(人頭) | 人口 | 産物 | |
一関村 | 113(村居住23/町居住90) | 645人 | 紅花、麻 |
二関村 | 91 | 520人 | 紅花、牛蒡、人参、麻 |
三関村 | 36 | 145人 | 紅花、麻 |
大町の中がどうなっていたのか気になる!次号でご紹介します。
■□「二関」の語源は「堰」?□■
「一関」「二関」「三関」という地名の由来には、2つの説があります。
① 関塞説(かんさい)説
前九年合戦(1051~1062)の時に設置された「関(関塞)」に由来する
② 用水堰説
用水堰開削に由来するとされ、当初は「一堰」「二堰」「三堰」だったものが「関」に転化した
史料上では、15世紀半ばから16世紀前半の正法寺(奥州市水沢区)に関する記録に「西岩井一堰願成寺」の表記が。16世紀後半からの当地域の城館主の系譜類は「関」になっているようなので、16世紀の中頃から転化していった可能性があります。
なお、「二関」という地名が確認できる史料が少ない中で、右の検地帳(一関市博物館蔵)には二関村の地名や田畑の面積等が確認できます。
<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同
一関市博物館(2013)『一関市博物館第二十回企画展 地を量るー描かれた国、町、村』
大島晃一(2006)『シリーズ藩物語 一関藩』
大島英介 千葉一郎(1992)『一関市の歴史下』
大島晃一(2012)『一関藩の研究 北奥近世資料の研究』
大島晃一(2022)『桜場の里―江戸時代一関俳壇の人びと―』
一関市史編纂委員会(1975)『一関市史 第4巻 地域史』
一関市史編纂委員会(1975)『一関市史 第7巻 資料編2』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三(1985)『角川日本地名大辞典 3 岩手県』
【調査協力者】
岩手県南史談会 事務局 大島晃一氏
一関市博物館 主幹 相馬美貴子氏
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。