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(idea2023年月12月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
江戸期~明治8年まで存在した「二関(にのせき)村」。現在「二関」と呼ばれる場所は存在していないため、大字として残っている「三関(村)」に対し、当該地域に暮らす人ですら、その存在を知らない人が多いようです。その実態を知るべく、前号では二関村のエリアを現在地図に落としてみました。今月は二関村のメインエリア(=現在の大町)にスポットを当て、二関村民の生業から、暮らしの様子に想いを馳せてみます。(前号はこちら)
(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)
■「農間余業」で生計を立てる
前号で紹介した通り、二関村に関する史料はほとんど残されていませんが、一関村・二関村とで「一関城下」を構成していたとされ、二関村は現在の大町が中心地であり、奥州街道が通っていました。その両沿いには隙間なく住居が連なっており、町屋敷数は寛文13年(1673)で63軒、幕末期には113軒です。
二関村は仙台藩領時代に「在町(在郷町)」として作られました。仙台藩では、仙台以外の町は農村と同様に群奉行の支配下に置かれたため(=在町)、「一関城下」の二関村民も、田畑を有し、年貢負担の義務を負っていました(身分は「百姓」)。
しかし、商品生産・貨幣経済の発達とともに、兼業農家化し、「農間余業」に勤しむ家が増加。そもそも二関村には零細な農地しかなく、専業農家であっても「自作・小作でようやく生活を維持する程度」だったのだとか。そのため、「兼業農家の大部分は余業によって専業農家以上の生活」をしていたそうです。実際、どのような「余業」を行っていたのか、以下に紹介します。
「二関村」の「生業」を調べてみた
「百姓」として、農業の合間に「商売」を行っていた二関村の村人たち。はたしてどのような「商売」を行っていたのか、大島晃一著『一関藩の研究/北奥近世資料の研究』の中で大島氏が明治3年・4年の史料等を元に作成した「大町町並図」を参考に、家業(生業)のみを書き出してみました(下図)。
明治3年(4年)の二関村
大島晃一著『一関藩の研究/北奥近世資料の研究』の「大町町並図(※1)」を参考に書き出した大町(≒二関村)の生業。( )内は明治4年の記録。
※1「明治三年六月二関町戸籍家業職業書上」と明治4年の「陸中国磐井郡二関村戸籍御改帳」を元に作成されたもの
大島氏の作成した図を参考に、明治3年・4年に大町に存在した職業を書き出すと以下のようになります。
【衣料品】古着屋、木綿屋、麻屋など
【食料品】米問屋、塩問屋、味噌屋、醤油屋、五十集屋(魚屋)、八百屋、麹屋、豆腐屋、麺類屋、
菓子屋など
【日用雑貨】荒物屋、小間物屋、古道具屋、蝋燭屋、瀬戸物屋、煙草屋、鍋屋、薬種屋、打綿屋、
網屋など
【接客業】旅籠屋、煮売茶屋、濁酒屋、質屋、髪結、湯屋(銭湯)など
【職人】 矢師、畳屋、馬具屋、飾屋、桶屋、染屋、仕立屋、足駄屋、砂官など
【その他】馬の売買・周旋
様々な職種がありますが、基本的には「農村生活に直結する」ものです。「職人」が少ないように感じられますが、城下東端の「職人町」に集住しているためなのだとか。
なお、上図で水色に色付けした店舗(①②③)は明治3年時点から変わっていない店です。①の「薬種店」は、現在も薬を扱う「自然薬佐久」。当時の戸主名は「佐藤久基吉」です。②の「五十集屋(いさばや)」は、鮮魚・割烹の「富澤」で、当時の戸主名は「富沢和右衛門」。③の「古道具屋」は、「千葉新家具店」で、当時の戸主名は「千葉新作」です。ちなみに上記3店舗に「二関村を知っているか」というヒアリングをしてみたところ、いずれも「知らない」という回答でした。
上図で黄色に色付けしたのは「④大肝入役所」、「⑤御代官役所」、そして西磐井地域でも主要な「⑥塩問屋」だった「佐藤弥三郎」の町屋敷です。
各村には村肝入がおかれますが、村肝入の上には一郡を支配する大肝入がおかれ、藩の代官がそれを監督します(二関村の村肝入は上記「塩問屋」の佐藤弥三郎)。大肝入は大庄屋とも呼ばれ、在地の有力者です(村肝入<大肝入<代官という関係性)。二関村は天和2年(1682)より一関藩ですが、一関藩の「大肝入役所」が二関村に置かれていました(④)。
さらに、地方には「代官所」がおかれ、そこに代官がいて、御郡奉行の政務を代行しましたが、一関藩の「御代官役所(西岩井)」も二関村に置かれていました(⑤)。
※代官所は、江戸幕府の終焉とともにその役目を終え、地主に返還されていますが、今回はあえてそのまま記載。
上図は「⑥塩問屋・佐藤弥三郎」の明治期以降の町屋敷(※2)です。前号で紹介したように、「一軒屋敷」と呼ばれる間口が狭く奥行のある屋敷割だったため、各屋敷は右図のように細長く、江戸時代には【表店、居住区画、井戸・厠、土蔵】という構成でした。弥三郎は明治期以降に味噌・醤油の醸造を生業として本格化させたため、裏門側に醤油蔵などが付設されています。弥三郎は北上川流域エリアの塩問屋の中でも力のある人物だったようです。
※2 一関市博物館(2010)『古文書にみる一関城下の町方』参照
<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同
一関市博物館(2013)『一関市博物館第二十回企画展 地を量るー描かれた国、町、村』
大島晃一(2006)『シリーズ藩物語 一関藩』
大島英介 千葉一郎(1992)『一関市の歴史下』
大島晃一(2012)『一関藩の研究 北奥近世資料の研究』
大島晃一(2022)『桜場の里―江戸時代一関俳壇の人びと―』
一関市史編纂委員会(1975)『一関市史 第4巻 地域史』
一関市史編纂委員会(1975)『一関市史 第7巻 資料編2』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三(1985)『角川日本地名大辞典 3 岩手県』
一関市博物館(2010) 『古文書にみる一関城下の町方』
一関市博物館・一関古文書に親しむ会(2004) 『古文書にみる江戸時代の庶民のくらし』
一関の年輪刊行委員会(2000) 『写真記録集 一関の年輪Ⅱ 20世紀の一関』
【調査協力者】
岩手県南史談会 事務局 大島晃一氏
一関市博物館 主幹 相馬美貴子氏
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。