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(idea2025年3月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
当センタースタッフがピックアップした「難解・難読地名」をテスト形式で100人に出題し、当該地域における「読めない地名ランキング」を勝手に作ってしまう人気企画「難解・難読地名に挑戦!」。第9弾となる今回の対象地域は大東町の「大原」。今回も「最も読めない地名」に見事選ばれた場所へ実際に行ってきました!
(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。)
今回の調査には市内の133人(内33人は大原地域在住者)の方にご協力をいただきました(調査は令和6年6月~7月にかけて市内の各種団体・企業の方や、講座・会議等でお会いした方などを対象に実施)。その調査結果から、大原地域在住者33人を除き、ランキングにまとめたものが下記の表です。
※ゼンリン住宅地図に掲載されている地名の読み仮名を正解とします(「ザワ/サワ」「ダ/タ」なども区別しています)。
地名(よみがな) | 正解者(100人中) | |
1位 | 当摩(たいま) | 8人 |
2位 | 朝米前(あさごめまえ) | 14人 |
3位 | 雪洞(ぼんぼり) | 16人 |
4位 | 角明沢(かくみょうざわ) | 20人 |
5位 | 勝善(しょうぜん) | 27人 |
6位 | 烏神(からすがみ) | 34人 |
7位 | 城戸(きど) | 35人 |
8位 | 有南田(うなだ) | 36人 |
9位 | 一ノ通(いちのかよう) | 38人 |
10位 | 笠置(かさおき) | 47人 |
今回、なんと圧倒的1位に輝いたのは「当摩」で、正解者は8人のみ。回答記入率はトップでしたが、100名中34人の方が「とうま」と回答。「当」という漢字が読めそうで読めず、「あたりめ」や「あたま」と回答する方も。思い切って回答はしてみたものの不正解というパターンが多かったのが印象的でした。
地域担当者は「『雪洞』が圧倒的1位で難解難読なのでは?」と予想していましたが、正解率が高く、ランキングとしては3位に。また、「朝米前」は「あさめしまえ」と答える方が多く(27人)、意外にも2位にランクイン。
「勝善」の回答には「かつよし」「まさよし」と、人の名前のような回答があり、「有南田」は、「うんなだ」「うなんだ」という回答が多く見受けられました。
■「当摩」の由来
『岩手の地名百科』には、「『平間(たいらま)』が『たいま』になり、漢字の『当摩』があてられるようになった。『平間』は、山谷の小平地を表す言葉である」との記載があり、スタッフが実際に現地を訪れてみると、文献の通り、四方が山に囲まれ、川を挟んで平地が続く土地でした。
「当摩」には、どんな歴史があり、昔の人々はどのように暮らしていたのか……!?
下記にて現地調査の結果と考察をご紹介します!
当摩(たいま)に行ってみた!
今回の「難解・難読地名ランキング」で1位となった、大東町大原の小字名である「当摩」。その当摩集落に在住する、佐藤梅男氏、熊谷一雄氏にガイドをお願いし、現地調査をしてきました!
<本ページの統一単位> 「地域」=協働体エリア/「地区」=行政区域/「集落」=小字
■ 地理
東側は黒森山(602m)の山頂で、陸前高田市矢作町に接し、西側は高洞谷山(583m)と耳切山(543m)がそびえています。
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昭和初期までは、海産物・陸産物の行商人が往来する「今泉街道」で、笹ノ田峠の茶屋も繁盛していたのだとか。
その谷間を当摩川が渓流となって北へ流れ、下内野地区の小字「堰ノ上」で砂鉄川に合流。当摩集落の特に居住地が集まっている所(左写真①付近)から笹ノ田峠(一関市大東町大原地域と陸前高田市矢作町の間にある国道343号線の旧道峠)までは約1.5㎞です。
■ 成り立ち
お二人によると、「300年以上前、現在の宮城県気仙沼市八瀬(行政区:上八瀬下区、上八瀬上区)の奥地に身を隠した武士の落人が、それぞれの住処を探す中で、奥地である同集落に落ち着き、暮らし始めたのではないかと聞いている。集落住民の本家や縁故は宮城県や陸前高田市方面が多い」とのこと。明治18年発行の文献には、集落名「當摩(旧字)」と表記されています。
※画像はクリックで拡大します。
明治22年に旧来の大原村単独で村制施行し、山口地区の当摩班(当摩に6戸、笹ノ田峠付近に2戸、合計8戸)となりました。大正~昭和初期には気仙方面から移住してきた人や、豊富な森林資源を活用すべく林業や炭焼きを生業とする人々(福島県などから)も暮らし始め(炭作りをする期間の季節移住者も含む)、集落内の戸数は12戸に増加。昭和9年には当摩線が開設され、ちょうどその頃、山口地区と隣接する下内野地区の区長会議などを経て、同集落は下内野地区に編入しました(笹ノ田峠付近の2戸は山口地区のまま※当時)。
■ 資源と産業
同集落に存在する森林は、昭和7年以降、一関営林署官公事業として管理され、その管理等を含む造林作業が住民の働き場・収入源となりました。また、昭和40年から当摩線の道路改良工事が始まり、平成14年、集落内を流れる当摩川に当摩橋も架け替えられ全線舗装の道路が完成しました。かつてはこの川や豊富な森林資源を活用し内野(行政区:下内野、中内野、上内野)の砂鉄でたたら製鉄が行われた炯屋(どうや)場もありました。
地理的に山に囲まれた平地であったため、広い田畑(戦前戦後は養蚕や葉煙草生産が全盛)を有し、昭和37年頃からは乳牛を育てる家庭が増え、昭和53年、国の減反政策に伴って牧草地転作。同年、畜舎一式・農機具一式を導入し、集落全体で酪農に力を入れました(昭和55年、酪農の整備育成団地として国から指定を受けるも、現在組合は解散し酪農は営んでいない)。前述の通り田畑は牧草地として整備したため、同集落内では田畑(特に田んぼ)はあまり見られません。
■人口と分校
現在の同集落は7戸13人。昭和30年頃(全盛期)は13戸94人暮らしていました。
年代 | 教育の変遷 |
大正12年 |
佐藤軍一氏の一室を借り、授業開始(4月~10月) 大原小学校当摩分室開設、生徒数約35人(11月~) |
昭和15年 | 当摩分室を閉校し大原町立大原小学校へ通学 |
昭和23年 | 大原町立内野小学校に学区変更 |
昭和26年 | 大原町立内野小学校当摩冬季分校開設 |
昭和30年 | 摺沢町・興田村・猿沢村・渋民村と合併し、大東町となる |
昭和48年 | 大東町立内野小学校当摩冬季分校閉校 |
平成17年 | 6市町村が合併し一関市となる |
平成21年 | 一関市立内野小学校閉校(一関市立大原小学校と統合) |
◆まるで高級酒のような名水!?
当摩集落はかつて隣接の山口地区の一つの班でした(上記参照)。その山口地区には下記のような伝説があり、当摩集落でも語り継がれています。
五郎作(後の仙台藩士菊池五郎作)は病に伏した親のため、大原の町まで薬と酒を買いに行っていた。ある日、冬の悪天候で町まで行けず悩んでいると、道中で湧水に出会う。一口飲んでみると何とも美味しい水であったため、それを汲んで持ち帰り親に飲ませた。すると「今日の酒は特別に旨い。この寒さの中、親のためにありがたい」と感謝された。この噂を仙台藩5代藩主伊達吉村公が聞きつけ、「たらつねの 親につかえし真心は 鏡となりて 世を照らすなり」と称賛。正徳4年(1714年)五郎作は大藩士となり菊池の姓を称することとなった。また、湧水地は霊泉栗清水と称し、今も有名な一か所となっている。
地元の方の言い伝えより
当摩(たいま)の由来を考察!
当センターによる調査段階では、「アイヌ語説」「當麻寺に関連する説」「苗字に関連する説」が当摩の由来としてあがりましたが、現地調査も踏まえると、右頁で紹介した『岩手の地名百科』に記載された説が最も有力なのではないかと考えられます。しかし、当摩の由来を裏付ける、決定的な文献等を見つけることはできていません。
地元の方々は、現在でも「当摩(たいま)」を「ティヤァマ」と発音し、昔は「當摩(旧字)」の表記を使用していたそうですが、由来についてはハッキリと分からないとのこと。
詳しい情報をお持ちの方は、ぜひ当センターまでご連絡ください!
<参考文献>
「夢紀行」編集委員会(1995)『緑と水の里 しもうちの 夢紀行』
大東町文化財調査委員会(2000)『大東町の地名 文化財調査報告書 第24集』
岩手県(1885)『岩手県(縣)管轄地誌 第七号巻之十一』
小島俊一(1983)『岩手の地名ものがたり』
阿部和夫、小島俊一、菊池強一、宍戸敦、高橋一男、小池平和(2003)『東北の地名・岩手』
芳門申麓(1997)『岩手の地名百科』
<調査協力者>
・佐藤梅男さん(大東町)
・熊谷一雄さん(大東町)
・下内野自治会 前自治会長 勝部欣一さん(大東町)
・ヒアリング調査にご協力いただいたみなさま
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。