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(idea2024年5月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
前号では、一関の地名由来の1つである「堰」について調査しました。「堰」の指すものとして、当センターとしては「北上川の氾濫をせき止めるための堰」が有力であるという結論にしたものの、調査過程で深堀りしてしまった「用水堰」について、当地域事情を整理しました。今回はさらにその派生で、当地域で最も古い歴史を持つとされる「照井堰」について調査し、用水路開削が急務だった時代の暮らしにも、思いを馳せてみました。
(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)
■800年以上の歴史
当地域において最も古いとされる堰は「照井堰」と言われ、今から約840年前の1185年(文治1年)に開削とされています(伝説的要素あり)。実は、平泉文化・浄土思想に基づく4寺院の池(毛越寺浄土庭園大泉ケ池、常行堂後方にある弁天池、観自在王院舞鶴ケ池、無量光院梵字ケ池)に水を満たすための導水路が、照井堰用水開削に発展したと言われ、その導水路は平泉遺跡群発掘調査において確認されています。
奥州藤原氏時代の水田は、小規模河川や沢など「自然の水源」を利用した取水が主。奥州藤原時代の平泉の人口は約10万人と京都に次ぐ人口だったとされ、水田開発が急務だったことが窺えます。
しかし、自然の水源による取水では、開墾可能な土地には制限があります。「照井土地改良区」発行の文献によると、水不足による農民たちの窮地を救うために立ち上がったのが藤原秀衡の家臣である照井太郎高春でした。高春は、水の豊富な磐井川から水を引こうと考えますが、磐井川の河床が平野部よりも深く下刻し低い状況から、河川の上流部から取水する仕組みをつくる必要が。
高春は磐井川を丹念に調べて歩き、堰の道筋を決めると、企画から27年後の1185年、開削に着手。しかし、1189年(文治5年)、藤原氏の滅亡により、高春は難を避け志半ばで五串村に移ります(以後、葛西氏に仕えた)。
1208年(承元2年)、高春の子孫である照井太郎高泰と荻荘荘司が私費を投じて五串村・猪岡村地内の磐井川に穴堰(≒水路トンネル)を開削。その後も、大崎掃部左衛門、柏原清左衛門、柏原新十郎、千葉半右ェ門等、様々な人物や統治者たちの手によって造設(延長)や改修などが重ねられ、1600年代には中里村や平泉地内まで灌漑するなど、当地域の水田開発を支えてきました。
明治維新後、堰の管理は県に属しますが、明治41年以降は水利組合や土地改良区(複数の合併歴あり)の管理となり、平成28年11月には「照井堰用水(照井堰から分水された用水堰の水路体系)」として「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
「照井堰用水」も認定!日本国内では51施設が登録(令和5年11月現在)
◆「世界かんがい施設遺産」とは
「かんがい(灌漑)」の歴史・発展を明らかにし、理解醸成を図るとともに、かんがい施設の適切な保全に資することを目的に、以下のような条件を満たした「かんがい施設」を「国際かんがい排水委員会(令和5年12月現在81の国・地域が加盟)」が認定・登録するものです。
[ 選定条件 ]
●建設から100年以上経過
●次のいずれかの施設であること。①ダム(かんがいが主目的) ②ため池等の貯水施設
③堰、分水施設 ④水路 ⑤古い水車 ⑥はねつるべ ⑦排水施設 等
●次の基準(9項目あり)を1つ以上満たすこと。 ※下記は一部
・計画策定、設計、建設技術、施設規模、水量、受益規模の点で最先端であった施設
・食料生産強化、生計の向上、農村発展、貧困削減に大きく貢献した施設
・施設に係る着想が建設当時としては革新的であった施設 ……等
■水路=豪族たちの夢?
高春は農民の窮地を救った英雄として語られますが、時代背景で見ると、水田開発が盛んに行われた時期です。743年の墾田永年私財法を機に、貴族や寺社、有力な豪族などが、農民を使って大規模な水田開発を行っており、後の荘園に発展しまします。東日本の水田開発は幕末期が最隆盛期とされていますが、骨寺村が中尊寺経蔵別当領となった(=中尊寺の荘園となった)のは1126年のこと。高春も様々な思惑のもと、奥州平泉文化を築いた各種技術を活用し、水田開発を進めたのかもしれません。
照井堰用水の歴史や特徴をまとめてみた
「照井堰」は、長い年月をかけて、「北照井堰」「南照井堰」など、複数の堰に分水されており、「世界かんがい施設遺産」にはそうした堰も含めた水路体系が「照井堰用水」として登録されています。なお「照井堰」と同時代に穴堰を開削し、照井堰とともに「大〆切頭首工」から取水している「大江堰」は、「世界かんがい施設遺産」には含まれていませんが、照井土地改良区では照井堰と同様に管理しています。
★:元禄12年(1699)の『磐井郡西岩井絵図(写)』で確認できた堰(当時は現在の名称ではない)。つまり少なくとも1699年までに灌漑していた堰。
照井太郎高春の死後、厳美渓から約3km上流の磐井川両岸に「穴堰」を開削したのは高春の子孫・高泰と荻荘荘司。
照井太郎高春が生前にどこから開削したのかは不明ですが、照井土地改良区によると、
下流側から掘削(雨などが降った時に水が抜けやすいように)し、最終段階で取水河川と接続したのではないか、とのこと。
高春が下流から上流に向かって掘削を進め、高泰が取水河川との接続を担ったのかもしれません。
▲厳美町字小河原地内にある大〆切頭首工。現在の施設は昭和59年竣工。照井堰と大江堰の取水を行っている。
▲大〆切頭首工には魚が遡上するための「魚道」がある(水しぶきがたっている部分)。ヤマメ、イワナ等が遡上する。
◆堰の変遷 (土水路・石積み・コンクリート)
開削当初は土水路だった堰も、昭和20~30年にはその多くが石積みに改修されました。コンクリート水路への改修が進められたのは昭和50年代以降のことです(照井堰用水では)。
土水路の水路幅はコンクリート水路に比べて大きく(写真①②参照)、コンクリート水路になることで水路幅が狭くなり、水流も早くなりました。水路の深さは、現在と同じくらいで、水路幅よりは短いのが通常だとか。
近年は、魚道の整備や蛍の生息地など、住民の要望等を聞きながら、コンクリートづくりから石積みづくりに戻すところもあり、生態系を壊さない努力がされています。
ちなみに、大正時代から昭和にかけては、堰に流れる水を利用した水車が照井堰用水でも30台近く稼働し、精米や粉ひき等を行っていたほか、赤荻字豊料地内では水力発電も行われていたのだとか(明治44年稼働の山十製糸工場が動力電源を確保するため、敗戦直前まで稼働)。
※画像は照井土地改良区提供
◆用水堰を作った道具たち
磐井川の岸は固い岩。掘削には相当の苦労があったことでしょう。当時使用していた主な道具は、鏨(たがね)、玄能(げんのう)。これらの道具で岩盤を掘り、「もっこ」で土や石を運びました。1日2m掘削するのがやっとだった、とか……。
玄能(げんのう)
玄能はハンマーの一種で、打撃部分の片側が平らに、片側がわずかに凸状に膨らんでいる。鏨の頭を叩き、岩を削る。
鏨(たがね)
岩石や金属を加工するための道具。鋭い刃を持っており、反対側(頭)を玄能やハンマーで叩くことで岩などを削る。様々な種類あり。
もっこ
縄や竹・蔓を編んで作った土砂の運搬道具。棒を通し、前後2人で担ぐことも。
※画像は照井土地改良区提供
<参考文献・論文(Webサイト)> ※順不同
照井土地改良区(2012)『幾星霜』
水土里ネットてるい(2017)『照井堰用水の概要』
一関市(1978)『一関市史 第1巻 通説』
岩手日日新聞社(2003)『一関郷村絵図』
照井土地改良区(2006)『鐵心郷潤』
水土里ネットてるい(発行年不明)『照井堰とそれを完成させた照井太郎高春のお話』
水土里ネットてるい.「照井堰の歴史」.http://www.terui1170.com/category7/entry29.html(2024/04/25)
【調査協力者】
一関市 水土里ネットてるい(照井土地改良区)
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。