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(idea2017年12月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
全国ご当地もちサミット2017が盛会裏に終わったところですが、岩手・一関全国わんこもち大会が開催されるなど、一関の餅文化をユニークに発信する取り組みが積極的に展開されている我がまち一関。
もちの聖地!?と呼ばれるようにもなり、ユネスコ無形文化遺産に和食が登録され、その中の一つに餅が含まれ、ますます全国から注目される餅文化ですが、そんな我がまちの「餅のルーツ」に迫ります。
一関地方では何かというと餅をつきます。年中行事や季節の区切りに餅料理が作られますが、中でも珍しいのは祝儀や不祝儀での餅本膳料理で、この地方独特のものといわれています。
この地方でこんなに餅を食べるようになったのは、江戸時代にさかのぼり、武家の年中行事が商家へと伝わり、商家から農家へ―。神仏や農具、農作業の区切りなどに餅を供え、いつしか豊作と家内安全を祈る農家の年中行事となりました。その当時の農家は年貢を納めるのが精一杯で、自分たちはくず米などを粉にして練り合わせ、雑穀と混ぜた「しな(しいな)もち」にして食べるのが一般的でした。それを工夫してよりおいしく食べるために、いろいろな餅料理が作り出されたのです。
このように一関地方の餅文化は、農作業と農家の生活に深くかかわりながら、長い年月のなかで多くの人々の知恵や工夫によって現在に伝えられてきました。この地方に伝わる餅料理は約三百種。その多彩さは日本一を誇ります。
上記は「岩手・一関全国わんこもち大会」のプログラムで使用している一関の餅文化の紹介文ですが、一関の餅文化の特徴は、そう、味の種類です!
江戸時代の主産業は農業であり、特にも河川地帯であった当地域は稲作が盛んに行われていました。これは今も変わることなく受け継がれていますが、前述の通り江戸時代は年貢制度があり、農家は年貢を納めると自分たちが食べる米は「くず米」しかありませんでした。決しておいしいとは言えないくず米をおいしく食べるための工夫として、味の種類を考えたということです。特にもご祝儀や不祝儀など、客人をもてなすために考えたといういわれもあり、耕作条件が良いと言える環境ではなく、厳しい生活状況の中から考え出した先人たちの知恵であったと推測します。
機械化し、稲作を行う条件も整った今の時代でくず米はないのでしょうか?今でもくず米はあります。実際に米の精米過程を見てみましょう。
脱穀して玄米とくず米に仕分けます。
玄米は1袋30kg、くず米は1袋25kgで出荷。
左の丸い皿が玄米 右の四角い皿がくず米
玄米は粒ぞろいで綺麗ですね。
一方くず米は未成熟の米が多く青米だったり胴割れを起こしたりと状態は悪いです。
今の時代、くず米はせんべいの材料や米粉として利用されていますが、その昔は庶民の主食がこのくず米であったこと、そして、おいしく食べるための工夫により、餅の味(絡めるタレ)が多くなったということが、我がまちの餅文化の特徴です。