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(idea2022年月5号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
誰もが一度は聞いたことがある民話「かさこじぞう」。昭和57年、小学2年生の国語の教科書に一斉採用されたこともあり、全国各地に知られるようになります。この時採用になったのは岩崎京子作の『かさこじぞう』で、各地に伝わる民話を再話したものでした。雪国を中心に各地に同様の話が古くからあったとされ、実は当市域内にも「笠地蔵発祥地の一つ」と推定される場所があります。推定に至った背景を調査しました!
※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。
■青少年の健全育成を願って
花泉町花泉字上舘(清水集落)の道路沿いに建立されている六尊のお地蔵様。昭和58年に「花泉ロータリークラブ」が建立したもので、その台座には「かさこじぞう」という文字が。六尊のお地蔵様のうち、五尊は編笠を、一尊はてぬぐいを被り、背後に立つ看板には次のような説明が書かれています。
笠地蔵の民話は全国に四ケ所あるといわれますが、花泉地方には次のような民話が伝えられています。
「昔 米がみのらず人々は苦しんでいました。大みそかの日、お爺さんはお婆さんの編んだ笠を売り、せめておいしいものを買って帰ろうとまちに出かけましたが、まちの人々もお金がなく、一つも売れませんでした。
がっかりして家にたどりつくころ雪が降り出し、道ばたの六地蔵さんたちがとても寒そうでした。お爺さんは可愛そうに思い、笠を一人一人の地蔵さんにかぶせてあげました。笠は五人分しかなく、一人分はお爺さんのほおかぶりをはずして地蔵さんにかぶせてから家に帰りました。
お婆さんは、お爺さん いいことをしましたね、といい二人は粗末な夕食をとっていました。そこへ、ザックザックと雪を踏む足音がしました。さっきのお地蔵さんたちがたくさんの宝ものを運んで来てくれたのです。」
お地蔵様に守られながら、優しい心、思いやる心、いたわる心をはぐくみ、子供たちの健やかな成長を願い、この民話を永く伝えるため、ここ清水地区を民話発祥地と推定し、六地蔵を建立しました。
建立以来、地域の皆さんの保存で大切にされています。皆さんもどうぞ保存にご協力ください。 ※原文まま
建立に至った背景を「花泉ロータリークラブ」に伺うと、「青少年の健全育成のため」とのこと。当時、全国的に青少年の暴力行為が問題となっており、そうした背景もあるかもしれません。しかし、気になるのが「民話発祥地と推定」という記述。その裏付けとなったものとは……?
地域をつなぐ六地蔵様
「かさこじぞう」こと六地蔵様をこの場所に建立したのは「花泉ロータリークラブ(当時の会長は故・佐藤紀明氏(花泉歯科医院院長))」ですが、その当時から宝泉寺やその檀家女性陣などを中心に、日常的に手を合わせてきました。
毎年8月24日は「地蔵盆の日」とされており、この日には宝泉寺が運営する「認定こども園花泉保育園」の園児たちが「地蔵盆参り」に訪れ、団子などをお供えし、手を合わせています。
また、清水集落では平成7年から、集落公民館事業として「編みがさ作り教室」を開いており、ここで制作した編笠を六地蔵様に被せています(講師を務めていたのは10頁左上で紹介している加藤孝さん)。
なお、この六地蔵を建立する以前には、この道路で事故が多発していましたが、建立後は交通事故が起こらなくなったとか!
まめ知識 全国で「かさこじぞう」が伝わる場所とは?
「全国に四か所」という看板の記述が気になり、調べてみると、「かさこじぞう」やそれに類似した民話が伝わる地域は実はたくさんあり、柳田国男監修の『日本昔話名彙』には、岩手県の事例として紫波と江刺の名前が出てきます(残念ながら花泉は記載なし)。
多くは雪国(東北、北陸地方)の町村ですが、山梨県、千葉県、島根県にも同様の民話があったようです。読み比べてみると、思わぬ発見があるかも!?
民話 「かさこ地蔵」のルーツを探して
「『かさこじぞう』発祥地の一つ」と聞くと、民話に出てくるような六地蔵様が古くから建立されていたことを想像してしまいますが、清水地区の場合、六地蔵様が建立されたのは昭和58年。建立の経緯としては「青少年の健全育成につながる事業を検討する中で、花泉町の、特にも清水地区には『かさこじぞう』の民話に通じる要素があったため、発祥の地と推定して六地蔵様を建立した」というもの。
そこで、「『かさこじぞう』の民話に通じる要素」を探してみました!
ルーツ1
約200年前に清水集落に伝えられた編笠の技術
『花泉町史』の「特産品」に関するページには次のような記述があります。
「文政年中(1818~30)清水町佐藤喜八なるもの、伊勢詣のついでに諸国を巡り、岡山で編笠を作ることを研究し、帰国して、佐々木梅治という人とはかって、栗原郡大岡・志波姫地方の畳表藺草を求めて編笠製作を普及した。一時は原料の藺草を栽培し、女の編手も多く、需要に応じきれない時代もあったが、今は衰退した。その他竹細工などが商品となった。これらの家内工業は、生産が増えるにしたがって、商品として農閑期には行商に、毎月ひらかれる金沢・涌津・清水・日形の市日に売りさばくなど結構収入の助けとなった。」
つまり、清水集落には約200年前に岡山県から編笠の技術を持ち帰った人がおり、そこから家内工業として清水集落に普及しているのです。その後、商売としての編笠は、現在の80歳代の人たちのお姑世代までは続いてきたそうで、全盛期は清水集落のほぼ全戸の女性が「現金稼ぎ」として編笠作りに勤しんでいたのだとか!
なお、「一時は原料の藺草を栽培し」という記述がありますが、清水集落内ではなく、油島地区の沢田で栽培をしていた人がいたとのこと。実際には仕入れ(栗原のほか、九州からも)が主だったそうです。
▲清水集落で商売として編笠を制作していた最後の一人・加藤孝さん(平成24年他界)。平成20年過ぎまでは注文があれば編笠を作っていたとのこと。「かさこじぞう」建立時にはすでに孝さんしか編笠を制作できる人がいなかったため、当初は孝さんが一人で六地蔵様への編笠を作っていました。
▲清水集落で昭和59年以前に作られていたと推測される編笠(『花泉町史』に掲載されていたもの。その出典は「広報『はないずみ』」)。
▲孝さんが制作し、旧花泉公民館に寄贈(平成20年2月)した編笠。
まめ知識
一般的には「すげ(菅)」で作る「すげがさ」
清水集落で作られた編笠は畳製造等に用いられる「藺草」が使われていましたが、民話『かさこじぞう』に出てくる編笠は、「菅笠(すげがさ)」と呼ばれる「すげ(菅)」という植物で作られた編笠のようです。
なお、当市域でも農家は「菅笠」を使っていたものの、当市域内で作られていたという情報は見つけられず、宮城県域で生産されたものを購入していたようです。
▲画像は一関市民俗資料館に川崎地域の人から寄贈された「菅笠」。
ルーツ2
金沢で行われた「つめ市」
民話『かさこじぞう』では、お爺さんが年越しのための食べ物を買うために、まち(民話によっては「市」)に出て編笠を売ろうとします。
先述の『花泉町史』にも記載があるように、かつて花泉地域では複数箇所で定期的に「市」が開かれていました。市が開かれる日は毎月決まっており、金沢で開かれる市は「6」がつく日(ちなみに、清水の市は「3」がつく日)。
そのため、年越しに近い12月26日に開催される市は「つめ市」と呼ばれ、年越しの準備をする客で賑わったのだとか。この金沢の「つめ市」と清水集落の距離感・関係性などが、民話に通じるところがある=背景の一つとして考えられます。
ルーツ3
二桜城址にあった宝泉寺
現在、「かさこじぞう」が建立されているのは八幡神社の参道前であり、違和感を感じる人もいるかもしれません。実はこの八幡神社のある場所は「二桜城」の跡でもあり、かつてこの場所には坂上田村麻呂が開創した「天台宗宝泉院」がありました(807年に「花立山宝泉院」と号したが、永和年代で廃寺となった)。1492年、二桜城主清水玄蕃葛西信実が宝泉院跡に禅寺を開基し「金寄山宝泉寺」と改め、その後(慶長年間)、現在地(花泉町花泉字馬場30)に遷ったとされています。
つまり、現在の「かさこじぞう」が建立する場所の山手には寺院があり、その麓に六地蔵があったという可能性はあり得なくもない、ということ。そうした歴史的背景も、清水集落が「かさこじぞう」発祥地の一つとする由縁の一つかもしれません。
〈協力〉 ※順不同
宇津野弘人さん(宝泉寺住職)、藤堂隆則さん(花泉町先人顕彰会)
菅原定雄さん(元清水集落公民館長)
花泉ロータリークラブ関係者のみなさま 等
<参考文献>
柳田国男監修・日本放送協会編(1948)『日本昔話名彙』/ 花泉町史編纂委員会(1984)『花泉町史(通史)』/佐々木徳夫(2005)『東北ふるさとの昔ばなし―「まてい爺とそそう爺」他八十七話―』/花泉社会科研究会(1976)『花泉の民話』/金沢村教育委員会(1956)『金沢郷誌』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております