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(idea 2020年3月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
日本刀の源流の1つに当市内・舞川地区で作られていた「舞草刀」があるという説はご存知の方も多いと思います。しかし、その舞草刀を作っていたとされる鍛冶集団「舞草鍛冶」については、実は謎だらけ。実証されてはいないものの、地元には舞草鍛冶にまつわる「伝承・伝説」は多々。そこで今回は、あくまでも歴史ロマンとして、地元に伝わる「舞草鍛冶伝説」をご紹介します!
※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。
鎌倉時代の刀剣書には、優秀な刀工として奥州から7人の名前が挙げられています。またその居住地が「舞草」とされているという説も。一関に「舞草」という地名があり、かつ「舞草鍛冶」に関する様々な伝説があることから、市でも舞草に優秀な刀工集団が存在したことを実証する調査を行ったものの、一関市博物館主任学芸員の小岩さんによると「舞草地区と舞草鍛冶のつながりを具体的に示す遺跡・遺物は確認できていない」というのが現状なのだとか。
ただし、少なくとも平安末期に人々の営みがあったことは確認されています。興味深いのが地元の方から聞いた「舞草7軒」という言い伝え。舞草は7軒から始まったということを意味するようで、そうした伝承(「我が家はそのうちの1軒なんだ」というもの含め)をされてきたという舞草住民がいるのだとか。
そして推測を膨らませる材料が屋号や地名にも。当時の鍛冶場は女人禁制だったため、妻子らは別の場所に住んでいたと考えられ、その場所としてついた屋号ではないかとされるのが「鍛冶妻」、刀を作る際に必要となる水・お湯に因んだ地名として「清水」「湯坪」、異国から渡って来た鍛冶技術を持つ人々の集まっていた地ではと推測できる地名「唐ノ子」などがあげられます。
これらは全て根拠となるものがなく、歴史ロマンでしかないのですが、舞草地区に伝わる「伝承・伝説」として、伝え残していきたいものです。
舞草鍛冶の遺構とは断定できないものの、これまでの調査では、「鉄滓」や「ふいご」の一部、焼けた土、鉄片など、鍛冶に関する遺構は見つかっています。その遺構を含め、舞草鍛冶の存在に想いを馳せられるスポットを舞草史跡調査会会長佐藤さんに案内してもらいました。
(写真右)平安時代に建てられたとされる儛草神社。実はその後方にはかつて坂上田村麻呂が安置した吉祥山東照寺があり、そこに出入りする山伏修験者らの中に、鍛冶に従事した者がいたとする説が。寺は跡形もありませんが、儛草神社の境内には「舞草古鍛冶発祥之地」という石碑(写真左)が建立されています(平成15年に舞草史跡調査会が建立)。
かつての鉄鉱石採掘場跡(安全のために人が入れないよう埋められている)。観音山と連なる白山岳は、鉄の含有量が多い上質な鉄鉱石がとれ、それが舞草刀の原料として使われていたと考えられています。
また、観音山と白山岳の間では、谷に吹く風を「ふいご」のように利用していた(もしくは「ふいご」を効果的に使っていた)という話も。
さらに白山岳をとりまく吉祥山は松が豊富で、火を起こす燃料の調達にも適していたようです。
(写真左)儛草神社の東参道沿いには「舞草鍛冶遺跡」の標柱が。実際には舞草鍛冶の遺跡と断定できるものは見つかっていませんが、この標柱から左手に下って行った辺りに鍛冶場があったのではという説が。また、道中にある「吉祥一番地」という開けた場所(写真右)が鍛冶場だったのではという説もあります。
(写真左)巨石が目を引く白山妙理権現社(養老2年創建)
が儛草神社との伝えが。
(写真右)その隣には刀鍛冶の神様である「金鋳神像」があったとされる標柱が建っています。舞草鍛冶たちは2つを信仰し、次第に2つを1つにして舞草の神として信仰したという説もあるようです。
儛草神社から200m程進んだ場所にある「大部ヶ岩」からの絶景。北上川の向こうは平泉。舞草鍛冶の全盛期は藤原氏の時代と重なり、その武器の供給を舞草鍛冶が担っていたとされます。一方で、藤原氏の滅亡とともに舞草鍛冶たちは鎌倉に連れていかれ、その後、全国各地に散り、技術を広め、融合させていったとも言われます。
切れ味を試した!?篭石(写真左)と様(ためし)石(写真右)。
<参考文献> 岩手日報社(1998)『いわて歴史探訪 』
舞草刀展実行委員会(1993)『舞草刀展(図録)』
舞草刀研究会(1992)『舞草刀研究紀要 創刊号』
<取材協力者> 一関市博物館 主任学芸員 小岩弘明さん
舞草史跡調査会 会長 佐藤隆士さん(舞草刀研究会会員)
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。