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(idea2020年9月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
当地域に明治8年頃まで存在した「鬼死骸村」をご存知でしょうか?「鬼」の字を含む地名は東北地方に多いとされていますが、「死骸」がつくことで群を抜いてインパクトのあるこの地名。ミステリー要素を感じずにはいられない「鬼死骸」という地名の由来に迫ります!
※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。
調査協力:「真柴まちづくり協議会」内「鬼死骸プロジェクト」推進リーダー・大倉秀章さん /
小野寺勝三さん・今野昌夫さん(資料提供等)
現在の一関市真柴の一部・南町・千代田町・台町の辺り(現在の三関辺りも含まれていたという説も)にあった村で、村落としての営みは奈良時代には存在していたようです。
当時は「吾勝郷桜野壮」と呼ばれていましたが、後述の「ある出来事」を機に「鬼死骸」と呼ばれるようになった同村。文化15年(1818年)作成の「鬼死骸村絵図」では約400人の人口が確認できます。
明治維新の際、行政村としても「鬼死骸村」と称しますが、明治8年10月、水沢県による村落統合で、牧沢村と合併、「真柴村」になりました。
「鬼死骸」という地名は消えてしまいましたが、通称としての「鬼死骸」は近年まで残っており、平成28年の3月末までは「鬼死骸」というバス停(※1)も存在!そのインパクトある地名はテレビ番組やインターネット上で取り上げられることもあり、推理小説(※2)の舞台となったことも…!
果たしてそんな「鬼死骸」の由来とは、いったい…?
※1 栗原市民バス「一関線」の停留所の一つでしたが、当該停留所を含む旧道沿いの利用人数が減少したことを受け、バイパスを抜け修紅短期大学前に抜ける路線に変更(平成27年度で鬼死骸のバス停は廃止)。
※2 吉村達也(1999)『鬼死骸村の殺人』
▲一関藩士の佐藤勇右衛門によって作成された絵図。「鬼死骸村」とはっきり記載されている。
【メモ】
一関市博物館に収蔵されているこの絵図。この絵図からは奥州街道が南北を貫き、村内で金沢村(現在の花泉町)に通ずる金沢街道が分岐していることが分かります。そのほか、神社や名水、舘跡などの情報も記載されています。
一関市博物館(2013)『一関市博物館第二十回企画展 地を量るー描かれた国、町、村』
▲現在の地図に落とした鬼死骸村エリア。西は萩荘(旧下黒沢村)、南は宮城県の金成(旧有壁村)。
地名の由来について、『復刻 真瀧村誌(※3)』には次のように記載があります。
往古、吾勝郷桜野壮ト云ヒ、延暦20年、坂上田村麻呂、
大武丸ノ賊従ヲ退治シ、其死骸ヲ埋メ置キタル。ヨク鬼死骸トイフ
つまり、延暦20年(801年)に坂上田村麻呂が「大武丸」を退治し、その死骸をこの地に埋めたことから「鬼死骸」と呼ばれるようになったと言うのです。
「蝦夷討伐」で有名な征夷大将軍・坂上田村麻呂ですが、田村麻呂が陸奥國へと攻め入ったときに果敢に抵抗して戦ったのが蝦夷の豪族の1人「大武丸」でした。(※4)
烈戦の末、戦いに勝利したのは坂上田村麻呂。負けた大武丸は打ち首になり、その亡骸が後の鬼死骸村に埋められますが、なぜかその首だけは今の宮城県方面へと飛んでいきます。そしてその首が落ちた場所とは……そう、現在の大崎市にある、温泉郷やスキー場で有名な「鬼首」なのです!
※3 真滝村誌復刻刊行委員会(2003)『復刻 真瀧村誌』
※4 登米市博物館(2017) 『坂上田村麻呂伝説~東北に息づく田村ガタリ~』
(※5)
「鬼死骸」の由来を感じられる場所として「鬼石」があります。この石は田村麻呂が大武丸の死骸の上に置いたと伝えられる巨石(写真①)で、500mほど離れた場所には、その時に飛び散った死骸の一部または一緒に戦った子分のものとされる石も存在。こちらは「あばら石」と呼ばれています(写真②)。
また「鬼死骸」という名前の残る貴重な存在として、秦平5年(1059年)に源頼義が勧請したとされている「鬼死骸八幡神社」があります。趣きのある参道(写真③)を進み、境内も参拝しましたが、残念ながら名前が刻まれたようなものは見受けられませんでした。ただ、地図には表記されており、地図上で「鬼死骸」という字面を拝むことができる唯一の存在かもしれません。
ちなみに、「鬼石」の近くにある「鹿島神社」には、田村麻呂の直筆・武器武具類・鬼牙(実際はサメの歯の化石)等が奉納してあったという話もあります。
「田村麻呂の馬の蹄の跡」や「鉄棒の痕」ともいわれる鬼石のくぼみ。
かつて設置されていたと思われる案内表示の痕跡を確認。今後地元で再整備の予定あり。
田村麻呂が大武丸を退治後の延暦20年に平安を祈願して勧請したとされる「鹿島神社」。
Q:「大武丸」の首は「鬼石」のところから宮城の「鬼首」まで飛んで行ったという話だけど、「鬼首」の地名の由来は「鬼死骸村から飛んできた首」となっているのかな?
A:大崎市鳴子在住の人に訊いたところ、「大武丸の首が飛んできた」という説はあるものの、その首の出発地点は「鬼死骸村」だけでなく、宮城県涌谷町の箟岳山だという説もあり(他にも多数)、どちらかと言うと後者が地元では主流。ちなみに、鬼首の温泉は首が落ちたところに湧いたとも言われています。
Q:「大武丸」ってそもそも何者?「鬼」って言われてしまうくらいだから、本当は悪い人だったんじゃないの?鬼死骸村の人たちにとってどういう存在だったのか気になる…!
A:大武丸は、村人から慕われていたという話がある一方で、追剥や強盗をしていたなど、諸説ありますが、大武丸が佐沼(宮城県登米市)で治水対策をしていたという説や、朝廷に対して最後まで戦いを挑んだという説があることから、真柴地域では「土地の勇者(=ヒーロー)」として語り継いでいます。
Q:蝦夷のリーダーとして有名なのは「阿弖流為(アテルイ)」だけど、大武丸とは何か関係ないの?
A:阿弖流為は延暦21年(802年)に田村麻呂に降伏して処刑されており、阿弖流為が大武丸もしくはその弟だったのではないかという説もあります。また、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」には、現在の平泉町の達谷窟に「悪路王」という鬼が住みつき、仲間(赤頭・高丸など)とともに悪さをしていたという記録が。その悪路王が大武丸だったのではないかという説もありますが、どちらも歴史ロマンの域を越えていません。(※6)
今回、取材協力をいただいた今野昌夫さんの家は「鬼死骸村絵図」にも描かれている歴史ある家です。すると取材中、ひょんなことから家の中で何代か前の先祖が書き残していたという古い書物を発見!住所の部分には鬼死骸という文字がはっきりと書かれている!何か貴重な資料になるかもしれないということで、この書物は一関市博物館で調べてもらうことになりました。まさかの展開に「鬼死骸プロジェクト」メンバーも期待しながら調査結果を待っている最中です!
※5 真柴地区振興会(2014)『史跡をたずねて』
※6 一関市立本寺中学校(2002)『須川・本寺風土記』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております