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(idea2025年4月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

伝説調査 ファイル №9 「ヘビ(蛇/巳)」


 巳年にちなみ、「巳」の漢字が使われる地名を調査していた我々。字名で1つ発見(巳待/川崎)したものの、深掘りが難しい地名だったため、思い切って方向転換!「ヘビ(蛇)」にまつわる伝説を調べ始めると、様々な伝説や俗習、言い伝えが出てきました。その中から、室根・藤沢地域に伝わる伝説をピックアップし、現地調査もしてみると、「水」に関する教訓や、信仰が見えてきました。果たして「ヘビ」と「水」の関係とは?        

(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。)


 市内のヘビ(蛇)伝説

 

 当市域の村史・町史、伝説や史跡等に関する文献を調査していくと、「蛇王神社(花泉町金沢)」「蛇王権現(一関市滝沢)」などの寺社や、「蛇堂のおはなし(大東)」「太田山の大蛇(室根)」など、ヘビが登場する昔話(伝説)が様々出てきました。

 田んぼや水路など、水辺付近で見かけることの多いヘビは、次第に水の管理者のような位置づけとなっていき、脱皮を繰り返すことから、生命力の象徴ともされ、神の使い水神として祀られてきたきた歴史があるようです。

 水は農耕に不可欠なものでありながら、時に洪水など、人々に災害をもたらします。『日本書紀』に登場する「ヤマタノオロチ(八岐大蛇)伝説」は、スサノオがヤマタノオロチを成敗し、クシナダヒメを助ける話ですが、クシナダヒメは稲作を司る農耕の神であり、氾濫を起こす水の神(オロチ)から、農耕の神を守る話ともとることができます。

 また、日本では古くから、ヘビが弁財天の使い(化身)とされており、特に白ヘビを崇める風習は全国的に広がっています。

 当地域に残されている伝説も、その多くは大蛇で、人々を困らせたり怖がらせる存在。川や沼のほか、上流や源流と思われる山(もしくは山中の岩)などに登場し、退治したり、目撃したことで祟りに遭うようなケースが多い印象です。

 俗習に関しては、トラブル等の暗示もあれば、逆に金運や幸運の予兆というものもあり、ヘビは「神の使い」である一方、「災いをもたらすもの」として恐れられているという、両極端な存在であるようです。

 

 地域 伝説   風習や言い伝え               
一関 「蛇、木に登れば水害」「長蛇橋(長者橋)」「慈恵大師伝説」「二つ頭のヘビ」「涙川物語」「昔話・化粧坂」

・ヘビが木に登ればよくないことが起こる

・ヘビの夢を見ると金を拾う

花泉

「蛇洞物語」

「蛇王権現」

・ヘビが右から左に横切れば金が入り、左から右に横切れば金がでる

・ヘビの夢は妊娠の兆し

・髪の毛を燃やすとヘビが来る

川崎 「銚子波分神社」

・ヘビの夢は吉

・ヘビを指すと指が腐る

・ヘビの皮を財布に入れておくと金が入る

千厩   ・ヘビを指すと指が腐る
大東

「蛇堂のおはなし」

「大杉と大蛇」

・ヘビの夢は金持ちになる
東山

「やぐら山と小沼の由来」

「娘三人の父親」

 
室根

「大蛇の白骨」「太田山の大蛇」

へび石

・ヘビに遭えば金が入る
藤沢 お菊の大水」「十兵衛と大蛇」

・ヘビを指すと指が腐る

・ヘビに横切られたときは旅をやめよ

 ※伝説や史跡等に関する文献等から抜粋できたものを地域ごとにまとめています。

 

 

蛇王権現(じゃおうごんげん)とは?

 日本各地に伝わる蛇神(龍神)信仰の一つ。蛇(または龍)を神格化した権現様として祀られる。特に水に関連する神として信仰され、水源や川の守護神、五穀豊穣、商売繁盛、財運の神として崇められることが多い。

 蛇王権現の起源や伝説は諸説あるが、蛇や龍の神格化、そして水神信仰との関係が深いことが共通。当地域にも同様のものが複数存在していると思われる。

 

ちなみに、「巳」は十二支の第6番目、方位では南南東、時間では午前10時頃を指し、本来「ヘビ」という意味はないんだよ。十二支に動物を充てた時、「巳」に「ヘビ」を充てた理由は諸説あるみたい!

 

 

ヘビ(蛇/巳)伝説深堀してみた!

 

 上記で紹介した通り、ヘビに関する伝説等が複数ある当地域。その中から室根と藤沢の伝説をピックアップ!実際に現地にも行ってみました。

 

 


伝説① 室根 へび石

 

 浜横沢入沢、牛房田のくろに、土に埋まって一部だけ見えている、大きな石があります。これが「へび石」とよばれる石で、むかしから近所の人達は「水を守る石」ということで、供物を備えて豊作を祈ってきました。

 この石の附近の田や小川は、どんな日照りでも、水の涸れることがなかったので、「これは水を呼ぶ蛇の力によるものだ。」と、誰いうとなく「へび石」と名づけられ、供え物をして、まつるようになったということです。

 勿論、今も田の持主は、節々に供物を供えているそうです。

※室根村教育委員会(1993)『室根村文化財調査報告書第八集 室根の伝説』より

 

 上記伝説の舞台、室根町浜横沢に行ってみると、残念ながら、昭和58年に田んぼの圃場整備が入り、そこにあったとされる「へび石」の行方は不明となってしまいました。

「へび石」があった田んぼを現在管理している、千葉栄一さんにお話を伺いました。

 

 圃場整備前は、現在の田んぼより2mほど地面が低かった。70年ほど前になるが、祖母がお米などをお供えしていた。へび石があった田んぼの横を流れている川もへび石川」と近くの人は呼んでいて、田んぼには「へび石川」の水を利用していた。そのため、水が枯れないよう、水の神様としてへび石を祀っていたのではないかと考えている。「へび石川」は山から出る湧き水で、堰を作り田んぼに水を引いていた。今も「へび石川」から水を引いてはいるが、堰ではなく塩ビパイプで水を引いている。

     千葉栄一さん

 

自由研究_昔のへび石

 

 

 

自由研究_現在のへび石の場所

『室根村文化財調査報告書第八集 室根の伝説』に

掲載された、昭和58年以前の「へび石」。

 

 

現在は写真の丸をつけた箇所に埋まっているかも……!?

 



伝説② 藤沢 お菊の大水

 

 昔、十和田湖の近くに十兵衛という狩人が住んでいました。十兵衛は非常に上手な狩人で、けだものをとって生計を立てていました。

 ある日、十兵衛は身ごもっている猿をしとめて来ましたが、十兵衛の妻もちょうど身重になっていましたので、夫のしうちを大変悲しく思いました。

 やがて、十兵衛の妻は子供を分娩することになりましたが、「決して入って来てはいけない。」と夫にいって、妻は部屋にとじこもりました。しかし、十兵衛は気がかりで気がかりで、どうしても見たくてたまりません。つい、そっとのぞいてしまいました。ところが、生まれた子供は女の子でしたが、からだは蛇の形をしていました。

 十兵衛は、これまでひどいことをして鳥やけものを殺してきた「たたり」だと思いましたが、今はどうすることも出来ません。

 「お菊」と名前をつけて育てることにしました。

 十兵衛や妻の悲しみとは別に、お菊は大きく育っていきました。顔は名前の菊の花のようにきれいですが、からだはどうしようもありません。夫妻はいろいろと話し合って、東山の保呂羽山に住ませるにきめました。

 十兵衛の妻は、かわいそうな娘のために旅姿をととのえました。東山の保呂羽までの道のりを教えて、泣く泣く娘を出立させました。お菊は、長い旅路でしたが、母親に教えられたとおりの道すじを、山を越え川を渡って保呂羽山にたどりつきました。

 保呂羽山のふもとまで来たお菊には、思いもかけないことが待っていました。保呂羽山は女人禁制の山で山の主である権現さまに叱られ、山に入ることはおろか、すぐに立ち去るようにいわれました。お菊は、ふしあわせな自分の身の上を考え、涙を流しながら徳田村をとおり、南こなしの又が沢に行ってそこに住むことにしました。

 又が沢に住むようになった娘は、日一日と成長して一丈余にもなり、あらしを呼んだりしてお菊にとってはおだやかな日々を過ごしていました。

 あるとき、お菊は海に出たいと思って雨を降らせました。海に出ようと思ってお菊が降らせた雨ですから、これまでにない大雨になり、この地方は洪水になってしまいました。

 お菊は、雷鳴がとどろき、大雨の降るなかを洪水にのって海に向かいました。又が沢から八沢の砂子田川に、さらに藤沢川から黄海を下る時には、大水が流れ、家が流される程の洪水になって、お菊も大水にうたれてたおれてしまいました。

 こうして、はかない一生を終わった娘のお菊は、黄海川をまっかにそめて、自分の行きたいと思った海には、なきがらだけが流されていきました。

 

 上記伝説のメイン舞台は十和田湖となっていますが、同様の話で現在の紫波町が舞台になった話(「十兵衛と大蛇」)もあり、紫波町と藤沢の双方で同様の伝説が伝わっています。いずれも「殺生への祟り」「大蛇」「黄海川の大洪水」という要素は共通しているようです。藤沢から見ると、大蛇の生まれ変わりである娘(お菊)は、黄海に大洪水をもたらした存在。そのため、藤沢の人々はこの時の洪水を「お菊の水」と呼ぶそうです。

 なお、藤沢町保呂羽大宝城には「蛇枕石(じゃまくら)」と呼ばれる石があります。上記「お菊の大水」では保呂羽山に入ることさえできなかったお菊ですが、伝説によっては、保呂羽の深田というところに住んでいたというパターン(その後、村人によって小梨に追いやられる)もあり、その際に身を沈めていた石と言われているそうです。

 

自由研究 一本杉
自由研究 蛇枕石

▲黄海川堤防にある「一本杉」と呼ばれる杉。「お菊の水」でも流されなかったという、当時の二日町のシンボル的存在。

 ▲藤沢町保呂羽大宝城に現在も残る「蛇枕石」

 



藤沢語り部の会のみなさんによると……

 寛政3年に起こったとされる洪水、地元の人は「お菊の水」と呼んでいる。北上川からの洪水ではなく、黄海川が氾濫したため、二日町が飲み込まれた。「お菊の水」は当時の川の流れを変えるほどで、当時の二日町と現在の二日町では町の形が変わってしまった。人の倫理、道徳に反する行いをすると、自分に返ってくるという教訓が含まれた話だろう。

 

 

 


<参考文献> ※順不同

 

松本博明/編(2011)『一関市厳美町本寺の民俗』

著/編小野寺啓(2006)『伝説の骨寺』

萩荘文化協会/萩荘史偏さん委員会(1991)『萩荘史』

萩荘地区まちづくり協議会(2020)『史跡マップ3 ふる里の風景 萩荘』

さざほざど・な〇会(2010)『ことばの地元学講座 さざほざ』

編/室根村文化財調査委員会(1993)室根村文化財調査報告書 第8集 『室根の伝説』

いちのせき語り部の会(2016)『おらほの昔語り 第2集』

編/岩手県小学校国語教育研究会(1978)『岩手の伝説』

編/大東町図書館(1998)『大東町のむかしばなし』

編/東山町田河津公民館(1986)『社会教育・民族文化財伝承「ふるさとの伝承活動」-田河津のいい伝え・昔話』

著/鈴木棠三(2020) 『日本俗信辞典 動物編』 

編/門崎村史編纂委員会(1956年)『門崎村史』

編/磐清水村誌編纂委員会(1957)『磐清水村誌』

編/薄衣村誌編纂委員会(1972)『薄衣村史』

編/藤沢のむかし伝承プロジェクトチーム(2017)『藤沢の伝説ファイル』

編/千厩町文化財保護委員会(1979)『千厩の古碑』

 

 

<調査協力者>

・室根町史談会 会長 千葉栄一さん(室根町)

・「黄海を語る会」のみなさん

・ヒアリング調査にご協力いただいたみなさま

 

 

その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました! 


 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております。

2025idea4月号 自由研究 キャプチャ画像