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(idea2021年月10号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
市内にある「由来が気になる地名」について深堀りする「地名の謎ファイル」。第4弾となる今回は大東町の「摺沢」。通説では「摺」は水晶をすり磨いたことに由来するとされ、摺沢には水晶にちなんだモノ・コトが複数あります。ここで疑問……水晶をすり磨いていたということは、水晶が採れるということか!?摺沢と水晶の関係性を明らかにすべく、その歴史等の調査に加え、実際に水晶の採掘に挑んで来ました!
※記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果です。
■「摺沢」と「水晶」
「摺沢水晶あんどん祭り」が今年で35回目を迎えるなど、「水晶のまち」が代名詞のようになっている大東・摺沢地区。岩手県立大東高校や一関市立大東小学校・中学校の校章は水晶(六角形や勾玉)がモチーフにされ、各校の応援歌や校歌にも水晶にまつわるフレーズが用いられています。
水晶をシンボルのようにしてきた背景には、次のような話が通説とされています。
神亀3年(726年)3月1日、坂本宿弥という者に神のお告げがあり、鶴ヶ峰から美玉(水晶)を採掘。これを国司・大野東人に献じた。大野東人はたいそう喜び、地中深く埋め、その上に社を建て「興玉神社(奥玉神社)」とした。
この伝承、奥玉村(現千厩町奥玉地区)の地名由来とされているもので、安永5年(1776年)に建てられた碑(※)に記されています。ではなぜ摺沢がこの伝承にあやかるのか……それは「鶴ヶ峰」が現在は摺沢地内にあるから!
※ 「櫻森伊勢祠碑」。奥玉神社は櫻森神社の一角にある。
つまり、国司に献上した水晶は摺沢産であり、その水晶は「摺沢で摺り磨いた」というのです…!
■スルサワ?スリサワ?
実は、摺沢が「スリサワ」という呼び方で統一されるようになったのは明治以降。それまで(戦国期以降~江戸期)は「スルサワ」とも呼ばれており、漢字も「数流沢」「須留沢」などと表記した時代が(城名も数流沢城)。
嘉永年間の文書『落穂集』には「摺臼ヵ沢」として、摺臼のような地形にちなむ説が記されており、江戸後期から臼が省略された「摺沢」表記が増えた可能性が。
「スリサワ」という呼び方は明治以降に増え、最終的には明治22年の市制町村制施行によって単独で自治体を形成した際に統一したのではないかと推測。
これらを踏まえると、「摺沢」という地名由来の通説が、いつから、何をきっかけに「国司に献上した水晶を摺り磨いた地だから」という説になったのか、地元でもはっきりは分からないのだとか……。
■「水晶石」が特産
ただ、ここで重要なのは「水晶が掘り出されたのは本当なのかどうか」。水晶を産出したとされる鶴ヶ峰は、後に「玉堀山」と呼ばれるようになりました(現在の玉堀公葬地がある山)。文献調査を進めると、嘉永5年の書上には、産物に「鮎・水晶石」と書かれており、嘉永7年には当時の藩主・田村邦行公が玉堀山を視察し、実際に水晶を彫り出すことに成功した旨の記録があることが判明!
つまり、水晶が採れていたことは確かで、なおかつ特産品だった時代があるのです。「水晶の里」であることに間違いはなく、実際、地元集落では水晶らしき鉱物が度々発掘されているのだとか。
そこで湧いてくる好奇心……果たして今でも水晶が採れるのか!?
実証!「玉堀山(鶴ヶ峰)」で水晶は掘り出せる⁉
坂本宿弥が大野東人に献上した水晶が掘り出されたとされる「鶴ヶ峰」改め「玉堀山」。嘉永年間には「水晶石」が「産物」だった記録もあり、過去に産出されていたことは間違いありません。果たして現在も水晶石は掘り出せるのか!?実際に挑戦してきました!
※地元集落の方の案内で採掘を行っております。
集落外の人が玉堀公葬地等において勝手な採掘をなさらぬよう、ご理解をお願いいたします。
水晶を掘ってみた
案内人は摺沢・長者集落在住で摺沢史談会の会員でもある佐藤英機さん。「羽根折沢から長者集落にかけて水晶が採掘できる脈が続いている」という話も。佐藤さんも実際に畑や山の作業中に水晶らしき鉱物を何度も採掘しているそう!
調査には摺沢振興会もタイアップ!一緒に土を削っていくと……何かしらの鉱物が!!!当該地区の地盤は花崗岩でできていて、その中には特に鉱物が大きく成長するペグマタイトという岩石があるのだとか。そこに上手く当たった可能性も!
採掘開始から約1時間。10個以上の鉱物を採掘することに成功!1番大きいもので長さ5㎝ほど。果たして採掘した鉱物は水晶なのか……
鑑定の結果は…‥⁉
専門家の見解を伺うべく、「石と賢治のミュージアム」の調査員さんに見ていただきました!
▲上の写真の黒っぽい石(中央の大きな石、左上から2番目、最右下)が煙水晶、白っぽく黄色が混ざっているもの(左上から3番目、4番目、5番目)が石英。
実際に調査中に採取した鉱物に、地元の方が過去に玉堀山周辺で採掘していた鉱物を加え、計7点の鑑定を依頼。その結果……なんと7点中4点が水晶であることが判明!
しかもその4点のうち3点は「煙水晶(淡褐色や暗褐色の色合いを
持った水晶)」、透明の六角柱の物については「両錘」という両端
に結晶の頭が見られるもので水晶としては特に素晴らしいものであることが判明しました。
ちなみに、残りの3点は「石英」。水晶も鉱物学的には石英に分類されるそうですが(水晶も石英も二酸化ケイ素(SiO₂)からなり、同じ結晶構造を持っていれば鉱物学的には全て石英に分類)、その中でも温度・時間・場所など様々な好条件が重なり、「石英の結晶が肉眼でもわかる大きさに成長したもの」を「水晶」と呼ぶそうです。
両錘のある水晶
※地元の小学生が採掘
水晶にちなんだアレコレ
▲大東町内にある学校の校章にも水晶(六角形や勾玉)モチーフが取り入れられている。
さらに、各校の応援歌や校歌にも水晶にまつわるフレーズが!
◀ゴミ集積所の扉にも水晶モチーフを発見!
◀毎年8月13~15日に行われる「摺沢水晶あんどん祭り」。昭和61年、お盆の迎え火を兼ね、摺沢商店街の活性化を図るために地域有志が創り上げたお祭りで、今年で35回目(昨年と今年はオンライン開催)。水晶にちなみ、あんどんを六角形にしているのが特徴。
◀羽根折沢自治会の会館名称は「水晶館」。
◀玉堀山のふもとにある長者自治会の会館名称は「水晶の里長者会館」
摺沢が「水晶の里」だったことは実証できましたが、地名の由来に関しては、実際には諸説あります。以下にその他の説(P9未記載のもの)をご紹介します!
■アイヌ語説
『日本先住民史(藤原相之助)』には「摺沢はスリサワなり、夷語のスルグナイSurg-naiにて毒沢なり、兜菊(トリカブト)の根より毒を取り、それを鏃(やじり)に塗りて射る為、兜菊を採取せるならん」とある。
■長老「摺沢坊主」から名づけた説 (摺沢史談会所有の資料より)
昔、家方公(仙台公)御出馬のおり、郷の年長者を呼べとの仰があったので、観音講先住の摺沢坊主(111歳)が呼び出された。家方公に郷の名前を聞かれるも、未だ名前がないと答えると、家方公が「お前の名は何というか」と聞いた。「摺沢坊主」だと答えたところ、「今より摺沢と命名せよ」と仰せられたという。
<協力> 摺沢史談会/摺沢振興会/摺沢水晶あんどん祭り実行委員会/石と賢治のミュージアム
<参考文献> 加藤進一(1967)『東山氏学研究発表会資料 摺沢町史抄』/摺澤尋常高等小学校編(1915)『摺澤村誌』/奥玉村誌「まとめる会」実行委員会(1988)『奥玉村誌』/摺沢史談会(1998)『郷土史叢書第三集 摺沢の歴史を探ねて』/大東町教育委員会(2000)『大東町の地名』/奥玉愛林公益会(2011)『史跡が語る勾玉の郷』/「角川日本地名大辞典」編纂委員会(1985)『角川日本地名大辞典 3 岩手県』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております