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(idea2020年10月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。

境目調査ファイル№1 「旧藤沢町」

世の中には様々な「境目」が存在します。物理的・地理的な境界はもちろん、心理的なもの、歴史的なもの、世代的なもの……そんな様々な「境目」に着目し、その境目ができた背景を探る「境目調査」。記念すべき第1弾は、地理的な境目として「旧藤沢町」の境目に着目し、「何でこんなところに境目が!?」という疑問の答えを現地調査も交えて探ってきました!

 

※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。

■境界はいつからある?

日本において地理的な境界が意識されたのは飛鳥時代、大和政権が地方を統一する際に「国(クニ)」と「郡」を置く「国郡制度」を導入したことに遡ります。当時の日本全体を示した地図は、各国を俵のような団子状に積み重ねたもので、各国が隣接する位置関係はわかるものの、詳細な境界は記されていません。その後、時代とともに、行政区画的なものが様々発生します。

 

 末端区域の集落の境界を定める動きは豊臣秀吉が実施した「太閤検地」である程度落ち着きが。各種末端集落を検地によって境界を定め、「村」に統一したのです。徐々に丈量の全国的基準もでき、徳川幕府の時代には土地台帳を作成させたり、全国規模の国絵図の作成を命ずるなど、群と村が確定されていきます。

 

 明治期には中央集権化の動きの中で、行政区画の境界を決める町村間の調整が進められます。そして明治4年の「廃藩置県」と、それを進めるための各種改革、明治21年の「市制町村制」などを経て、現在の境界ができあがってきたのです。

 

 

■「村境」の考えかた

 ここで考えておきたいのが、末端区域とされた「村」の境界です。当時の「ムラ(村)」は、家々が集合する集落を中心に、その周囲に田畑(耕地)が展開、その外側に山野が広がったものであったと考えられ、その境界としてはっきりしているのは山野や川など、自然の要因によるものであったはずです。

 

 また、もう一つ忘れてはいけないのが、村民の生活における「心理的村境」です。「道切り」や「辻切り」と呼ばれる習俗がその表れですが、村外から村内に通ずる道に、村境が明確に分かるような象徴(しめ縄、人形、石等)を置いたのだとか。現在は道路整備等で移設されてしまった道祖神、庚申塚などの石碑は、実は村境に置いてあったというケースも多いようです。

一関市藤沢町保呂羽の景色。中央に保呂羽湖。
山の尾根から手前が藤沢町保呂羽。尾根の反対側は室根町津谷川。保呂羽神社の参道から撮影。

旧藤沢町 境目に関するエピソード

・明治維新前に旧藤沢町域にあった村は、藤沢(本郷)、西口、黄海、徳田、砂子田、増沢、新沼、保呂羽、大籠

 

・明治22年の町村制施行により、藤沢(本郷)と西口が「藤沢村」に、増沢、砂子田、新沼、徳田が「八沢村」に、そして保呂羽、大籠に現室根地域の津谷川村が加わり「大津保村」となった(黄海は旧来からの単独で「黄海村」)。

 

・八沢村となった旧4村は、往古藤原氏の領地だったが、藤原氏から葛西氏の領地となったことで、徳田村は一の関藩に属し、その他3村は伊達藩に属したという経過が。

 

・また、昭和28年の町村合併促進法により、町村合併の検討が行われた際、八沢村には旧千厩町の4村と合併するという案も浮上し、意見が二分した。増沢、新沼、砂子田の区域に対する境界変更に関した意見書が提出されたり、議会に傍聴人が乱入して大荒れになるなど、大混乱が生じた。

 

・同じく町村合併促進法施行後、大津保村でも大波乱が。大籠・津谷川に対し、宮城県から吸収合併の誘引があったり、津谷川村民が藤沢ではなく、室根側への分村合併を求めて動き出した。議会においても意見が対立する中、県としても意見調整に乗り出し、津谷川村を矢越村に編入するような動きに。結果的に津谷川の社会的、経済的環境の相違が認められ、保呂羽・大籠は藤沢町に、津谷川は室根村にそれぞれ対等合併した。

旧藤沢町の境目探訪

旧藤沢町 地図

宮城県と岩手県の県境にも位置する藤沢。県境や旧村間の村境も気になるところですが、今回は新一関市として合併した旧町村との境界を中心に、実際に現地に赴いて調査してきました!道路交通網が発達していく中で、前述の「心理的村境」はもちろん、物理的に境界の要因になっていたであろうものも見えにくくなっていますが、実際に現地に行き、等高線等と照らし合わせて見ると、ぼんやりと、当時の暮らしに想いを馳せることができました。

 

※番号のついている箇所が実際に現地確認をした境目

【地図②】

地図上では川の中央に境界が。向かって左が日形、右が藤沢。(花藤橋の中央付近から撮影)

一関 川崎と藤沢の境目

【地図⑥】

手前の視線誘導標には「川崎」右奥の視線誘導標には「藤沢」と書かれており、この2本の間に境界が!

峠だったと思われる。

一関 川崎と藤沢の境目

【地図④】

川沿いの平坦な道の途中にある境界。峠でもないし…と思いきや、山側の等高線を見ると小さな谷をなぞっている!

【地図②と③の間】

日形(花泉)から望む小日形(藤沢)。どちらの地名の由来も「干潟」から来ており、かつては海もしくは川だったとされている。

旧藤沢町の境目3大要因

1)峠・尾根

地図 等高線

地図をよく見ると、等高線の最も高い場所を結ぶように(=尾根、稜線)境界線が引かれている場所が多々。集落から見えている山並みの手前側を自分たちのムラと考えたのであろうことが推測できます。

 

また、保呂羽の藤源寺住職によると、修験者たちは尾根を伝って移動していたのだとか。

 

山を開いての道路整備が進んだため、実感として分かりにくい場所も多いですが、「きっと峠だったんだろう」と感じられる境界も多く(⑤⑥⑦⑨)徒歩や馬・牛での生活だった時代において「峠を越える」「山を越える」ことの意味合いを想像させられます。

2)川・沢


北上川が花泉側(日形・永井)との大きな境界となっている藤沢。

その他にも千厩川や北上川水系のいくつかの河川が境界となっている場所が複数ありました。

 

①の宮城県登米市との境界には北上川水系の相川が流れていましたが、小さな川なので車窓からは見えず(写真上)、橋から下をのぞき込んでようやく川を発見(写真下)!そこに境界の要因があることを確認できました(笑)

 

ちなみに、川を境界とする場合、川の中央線を村境や県境にすることが多いようです。

 

また、河川の改修工事が行われた結果、境界線と川の流路が一致しなくなったり飛び地が発生することも珍しくはないようで、今後、そうした一見謎の境界が発生してしまうこともあるかもしれません。

3)入会地

室町末期から江戸時代にかけて制度化されたとされる「入会地(いりあいち)」。縄張り争いを避けるために、いずれの村にも属さない、共同利用の山であり、入会権が認められた人たちが木材の伐採や薪、落ち葉などを採取していたとのこと。しかし、明治期に入会地の境界を明確にしなければならなくなった際、多くの入会地が官有化されました。

 

藤沢の境界を辿っていくと、境界線が国有林等の官有地の中にあるエリアが。断定はできないものの、上記のような入会地に関係した境界線なのではないかと推測します。

 

下の写真は⑩の付近ですが、やはりこの先は国有林です。地図を見ると、国有林の中においても基本的には尾根を結んでいるようです。

 

ちなみに、県境・市町村境の未定地は国内に多々あり、岩手県内にも未定地が存在しているらしい!

その背景の一つにこの入会地問題があるケースも多いようです。

 

<参考文献> 藤沢町史編纂委員会(1979)『藤沢町史』

       齊藤忠光(2020)『地図とデータでみる都道府県と市町村の成り立ち』

 

       浅井建爾(2013)『知らなかった!「県境」「境界線」92の不思議』

 

↓実際の誌面ではこのように掲載されております

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