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(idea2022年月4号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
当地域には郷土の誇りと言える偉人が数多く存在します。偉人そのものの功績もさることながら、その「末裔」を調査し、会いに行くシリーズ「末裔調査ファイル」。第3弾は室根町釘子地区で語り継がれてきた義民・昆野八郎右衛門。今でこそ「昆野八郎右衛門神社」が建てられ、郷土の誇りとして知られる存在となりましたが、その陰には数々のドラマが……!また、驚くべき人物との関係性も明らかになりました!
※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。
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※あくまでも「誌面こぼれ話」ですので、誌面内容を下記よりご覧いただいてからお楽しみください!
■昆野八郎右衛門の生涯
江戸時代前期、長坂村(現東山町長坂)の肝入の子として生まれた八郎右衛門は、15歳で釘子村(現室根町矢越)肝入・昆野茂左衛門の養子となり、28歳で徳田村(現藤沢町徳田)の星惣五郎の娘と結婚します。
38歳の時に養父が病死。八郎右衛門はその後を継いで肝入役を命じられます。当時、釘子村含め上折壁、下折壁、浜横沢、上奥玉、上曽慶、砂子田、津谷川の8か村は伊達氏の家臣・石川大和宗弘の領地で、釘子に代官所がありました。
八郎右衛門がおよそ50歳の頃(推測)から釘子村周辺では4年にわたって凶作が続き、農民の暮らしは困窮を極めました。肝入として代官に年貢を軽くするよう懇願したものの、事態は変わらず、村人の中には一揆を企てる動きも……。
一揆を起こせば女性や子ども含め、村中に処罰が下される可能性もあり、「暴力に訴えてはいけない」と、村人をなだめ、自らが伊達藩主・伊達綱村に「直訴」することを決意します。
直訴は罪とされる時代。妻子にも処罰が下される可能性を考慮し、八郎右衛門は自己の所有地や物品を子女に分け与えたのち、妻子とは離縁。自らの名も改名し、一人で仙台へ赴くと、町奉行などの家に奉公しながら、直訴の機会を待ちました。
八郎右衛門は綱村公が「東照宮」を参拝する機会に合わせ、宮町(仙台市青葉区内)にて訴状を差し出すことに。青竹に挟んだ訴状を綱村公の駕籠の前に差し出しますが、警護の役人たちに捕えられます。
天和2年、八郎右衛門は処刑されましたが、直訴により、石川大和宗弘の領地は伊達家の直轄地となり(領主や代官は所替)、年貢も穀納から金納に改められるなど、村人の負担は軽くなったのです。
村人にとっては英雄の八郎右衛門ですが、仙台藩にとっては罪人。八郎右衛門の首は釘子村の縁者が貰い受けたものの、すぐにお祀りするこができず、処刑から約150年後、屋敷跡に小さな祠を、明治20年にようやく「八郎右衛門神社」として公にお祀りするに至ったのです。
昆野八郎右衛門ヒストリー
▼室根市民センター所蔵の『昆野八郎右衛門物語』を 参考にまとめました。
▲八郎右衛門の首は遠縁の昆野家が貰い受けたとされ、その当時のものと思われる首塚と
石碑(塚の上)が現在も残っている(昭和53年に新たに建立した首塚もある)。
\隠れたドラマ満載/
八郎右衛門を取り巻く裏ヒストリー
罪人とされた八郎右衛門は、公には釘子住民に手を合わせられることもなく、口伝を中心に語り継がれました。処刑から約150年後、釘子村に病が流行すると、「八郎右衛門の供養をしていないからでは?」との声が上がり、屋敷跡に菰(こも)づくりの小さな祠(八郎明神)を建立します(江戸期であり、まだ公には祀ることができない)。
明治20年、ようやく代官屋敷があった「朝日館」跡に公に手を合わせられる祠が建てられますが、それまで隠されてきた八郎右衛門の生涯については、資料等も少なく、釘子住民の間で語り継がれるのみ(昭和初頭に集落の青年たちが演劇の題材にしたことも)。
昭和27年、花泉町出身の教師・千葉幸右衛門先生が矢越村立矢越中学校に赴任します。幸右衛門先生が八郎右衛門に着目し、その史実確認を始めたことで、八郎右衛門は日の目を浴びることになり、現在に至るのです。その略歴が以下。
◀310年祭に訪れた千葉幸右衛門先生
◀長宗我部氏と室根を結び付けた小山喜久雄氏(2022年3月撮影)
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八郎右衛門が養子に入った昆野家の先祖(始祖)は土佐国の戦国大名・長宗我部元親の家臣である長宗我部主水であるとされる。長宗我部元親の三女は伊達家に保護され、その次男は伊達家の奉行となっているため、八郎右衛門は直訴に対する措置に期待をしていた可能性がある。長宗我部家の末裔が幸右衛門先生の著書を機に平成28年頃当地を訪れた。
末裔ファイル3
釘子村を救った天和の義民 八郎右衛門が生まれた家の末裔
昆野八郎右衛門 ▶▶▶ 那須照市さん
直訴に向かう前に離縁しているものの、八郎右衛門には2人の子がいたとされ、娘は妻の出身地・徳田村(藤沢町)の星家に嫁ぎますが、釘子村に分家(朴木屋敷)。朴木屋敷は現在貸家となり、家主(=末裔)は当市内にはいないとか。息子も釘子地内に住居を構えた(角地屋敷)とされますが、現在は空き家となり、その子孫も遠方にいるようです。一方、八郎右衛門の生家の家系(長坂村・那須家)は脈々と受け継がれ、現在の当主は那須照市さんです。
那須さんが初めて金野八郎右衛門神社を参拝したのが330年忌の時。当時は岩手日日新聞社で記者をしており、末裔であり記者でもあるという立場で参加。自らが末裔として映った集合写真とともに記事にし、八郎右衛門の功績と、地域が顕彰に努める様子を紹介。その時の記事は現在の神社管理に大きく貢献する小山喜久雄さんが立派に保管しています。
「『間違っていることは間違っていると言う、正論は曲げない』という自分の性格は、八郎右衛門に通じる部分がある。八郎右衛門を知ってその想いはより強くなった」という那須さん。同じく新聞記者だった長宗我部氏との出会いにも、運命を感じます。
▲那須照市氏
昭和34年生まれ。岩手日日新聞社を退職後、現在は川嶋印刷㈱広報制作室編集長。趣味は合唱とゴルフ。
〈協力〉 ※順不同
小山喜久雄氏(室根町釘子)
星義弘氏(藤沢町徳田)
室根史談会
室根市民センター
その他、釘子地域のみなさま
<参考文献> ※順不同
千葉幸右衛門(1991)『天和の義民 昆野八郎右衛門伝』
長宗我部友親(2017)『絶家を思う』
室根村立公民館(1997)『歴史を訪ねて』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております
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