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(idea2023年5月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
一関市藤沢町大籠の製鉄を興隆したとして地域で語り継がれる「千松兄弟」。この千松兄弟を招聘し、大籠周辺を伊達藩きっての鉄の産地に発展させたのが「千葉土佐(初代/二代目)」です。当地域の偉人そのものの功績もさることながら、その「末裔」を調査し、会いに行くシリーズ「末裔調査ファイル」。第4弾は大籠で「烔屋(どうや/北上山地周辺地域での砂鉄精錬業者もしくは製鉄する場の呼び名。全国的に言う「たたら」)」を展開した「千葉土佐」にスポットをあてます。
(記載内容はあくまでもセンター独自調査の結果)
■当地域における烔屋の歴史
山林が豊富で、砂鉄の埋蔵地にも近接していた大籠では、慶長年間(1596~1615)に「烔屋」が産業として興隆し、明治30年頃まで烔屋が存在していました。
大籠での烔屋興隆から遡ること約40年(永禄年間)、葛西家家臣の千葉土佐(初代)は、佐藤但馬とともに備中の国(現在でいう岡山県西部)に赴き、「布留大八郎・小八郎(後の千松兄弟)」を宮城県の砂鉄地帯(桃生郡/現在の石巻市・東松島市付近)に招聘。戦国時代であり、武器を製造するための製鉄需要があったとされます。
桃生郡では4カ村で烔屋が稼働しますが、森合城の落城(下頁参照)や、さらなる燃料や材料などを求め、桃生郡から狼河原(現在の登米市東和町米川)に烔屋を移し、さらに布留兄弟は大籠村の千松沢に移住します(文禄元年(1592)という説あり)。その後、慶長(1596~)に入ると、大籠村の「清水山(左利沢・早坂周辺)・奈良原山(現在地不明)・大穴(杉松・大籠周辺)」の3か所に烔屋が開かれ、この時の烔屋経営を行った8人が「烔屋八人衆」と呼ばれます。
今回スポットをあてる「千葉土佐」はこの八人衆の一人ですが、布留兄弟(以下、千松兄弟)を招聘したのは初代千葉土佐、大籠で烔屋の経営を行った(鉄吹方工として功績を残したという説もあり)のは二代目(息子)の千葉土佐です。
■武器から農具へ
二代目千葉土佐が大籠で烔屋を経営し始めた頃は、豊臣秀吉の天下であり、大籠からも大阪城の築城や豊臣政権が使用する軍用鉄・鉄砲鉄を供給していたと考えられます。伊達政宗が当地域を領有するようになってからは、岩出山城や仙台城、江戸城の築城等にも供給していたとか。この頃には烔屋も東磐井郡・西磐井郡・本吉郡・登米郡・気仙郡など、各地に増設されます。
次第に武器の需要よりも農具の需要が増加(慶長以前には仙台藩領内には鍬鍛冶がなく、他領から輸入していたため、高価で農民には負担が大きかった)すると、二代目千葉土佐は、鍬鍛冶の技術を習得するため、首藤(須藤)相模と共に京都へ上るのです。
鍬鍛冶技術を習得し、大籠に戻ると、「菊一」「菊上」と記した鍬の製造・販売を始めます。農民が鍬を入手しやすくなっただけでなく、仙台藩の特産品ともなり、鍬鍛冶を行うために烔屋を開く地域が続出(津谷川村(室根町)村民18名が元和3年(1617)に鍬鍛冶生産を申請するなど)。
その後も社会の安定とともに、用水路や溜池の整備、開田が進み、鉄製農具は大きな役割を果たします。
こうして、当地域における製鉄は、初代千葉土佐がきっかけを作り、二代目千葉土佐が発展させたのです。
※あくまでも様々な説からの推測です。
「大籠キリシタン資料館」に展示されている鍬(藤沢町大籠・佐藤信一氏蔵)。二代目千葉土佐らの鍬鍛冶技術により大籠で造られた鍬には「菊一」「菊上」の銘が刻まれている。この鍬には「菊一」の銘が。
同じく「大籠キリシタン資料館」に展示されている「千松大八郎」をイメージした像。キリシタンだった「千松兄弟」は、製鉄技術(南蛮流製鉄法や天秤流)とともに、キリスト教も布教した。なお、千松兄弟については、実在していなかった(別の人物に架空の人物を当てはめた)のではないかという説もある。
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千葉土佐とその子孫のヒストリー
上頁では初代及び二代目千葉土佐による製鉄に関する功績のみを紹介しましたが、実は千葉土佐がそもそも何者で、どこの出身者なのかは定かではありません。藤沢町史などでは、初代千葉土佐を「葛西晴信の家臣で、宮城県登米郡東和町の森合城主」としていますが、「長坂(東山町長坂)から狼河原に移り住んだ浪人」という説なども。以下では、森合城主として、城主時代に烔屋を開いたという説で、千葉土佐とその子孫に関する歴史を整理してみました。
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セル2 |
末裔ファイル4
大籠で製鉄を興隆した烔屋八人衆の一人
千葉土佐
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2代目千葉土佐の大籠の住まい「検断屋敷」の14代目当主
千葉 清さん
2代目千葉土佐が大籠に移り住んだとされるのが寛永年間(1624-44)。屋号が「検断屋敷」であることから、村役人などであったことが推測できます。
この「検断屋敷」に現在も暮らしているのが千葉清さんです。千葉家の法名碑や文献、ヒアリングなどを元に推測すると、初代千葉土佐から数えると15代目、「検断屋敷」としては14代目の当主と考えられます(家系図などは残っていない)。家屋そのものも、清さんの幼少期に「築300年くらい」と聞いたことがあるそうで、当時から大きく変わっていない可能性も(平成16年にトタン屋根をかぶせている)。
2代目土佐以降、製鉄に関係していた先祖がいるのかどうかは千葉家にも伝わっていないと言い、清さんの祖父・哲夫さんは農業を、父・満男さんは酪農業を営んでいました。しかし、千葉家に残る古文書の中には、製鉄炉の図や、製鉄に使う工具の図、製鉄用炭窯の図等が残されており、製鉄に関連した先祖がいた名残を感じさせます。
◆「千葉土佐の末裔」という認識をもったきっかけや時期は?
-高校生あたり。学者のような人の取材(調査)を祖父が受けていて、「次の次の代は俺だろうなぁ。この家を継がなければ」という意識が芽生えた。
◆末裔としてのエピソードがあれば……
-藤沢町民劇(現・一関藤沢市民劇場実行委員会)の第1作が千葉土佐に通じる作品で、脚本家から「お前(の先祖)のことやっているから見さこない?」と言われ、仙台での上演時に見に行った。また、二男は、高校生の時に「千葉土佐の末裔だ」と、同級生に言われたことがあるらしい。父や自分の代になってからは歴史関係の客は減った。
◆千葉家の今後について
-長男(市内在住)、二男(宮城県在住)と千葉土佐の話をすることはないし、聞かれることもないが、いずれ本人にその気があれば自分から聞くし、学ぶだろう。欲を持たず、「足るを知る」を心がけている。
千葉家に残る古文書のうち、製鉄炉の図面と思われるもの。右ページには千松兄弟が最初に伝えた技法とされる「二神陽合吹」の表記と図面が、左ページは「備前流三神陽合吹」の図と推測。
<参考文献(Webサイト)> ※順不同
県際山町歴史シンポジウム実行委員会(1995)『切支丹の製鉄 宮城・岩手県際三町歴史シンポジウム記録』
小野寺秀夫(1970)『大篭の切支丹と製鉄』/室根村史編纂委員会(2004)『 室根村史 上巻』
東山町史編纂委員会(1978)『東山町史』/藤沢町史編纂委員会(1979)『藤沢町史本編 上巻』
千厩町史編纂委員会(1993)『千厩町史 第三巻 近世2』
紫桃正隆(1990)『戦国大名 葛西氏家臣団事典』
沼倉良之(1991)『洞窟が待っていた 仙北隠れキリシタン物語』
株式会社平凡社(1987)『日本歴史地名大系第四巻 宮城県の地名』
<取材協力>
大籠キリシタン殉教公園(大籠キリシタン資料館)職員のみなさま
藤沢町大籠 千葉清さま
その他、調査にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました!
↓実際の誌面ではこのように掲載されております。