※お願い※
記事内の写真や資料は、当情報誌での使用について許可をいただいて掲載しております。
無断での転載などの二次利用はご遠慮ください。
(idea2020年8号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
当センタースタッフがピックアップした「難解・難読地名」をテスト形式で100人に出題し、当該地域における「読めない地名ランキング」を勝手に作ってしまう人気企画「難解・難読地名に挑戦!」。第5弾となる今回の対象地域は「永井(花泉)」。今回も「最も読めない地名」に見事選ばれた場所に実際に行ってきました!
※記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です。
難解・難読地名
ランキング
※ゼンリン住宅地図に掲載されている地名の読み仮名を正解とします。
(「ザワ/サワ」「ダ/タ」なども区別しています)
今回は永井地域以外の市内各種組織・団体・企業の方などに当センタースタッフが直接対面しての調査に加え、一関清明支援学校の先生たち(生徒さんの実習の一環)にご協力いただき、市外在住者含む104人の方にご解答いただきました。その調査結果をランキングにまとめたものが左の表です。
2人差という僅差で見事「最も読めない地名」1位に輝いたのが「栢ノ木」。「栢」はシンプルな漢字ながら、日常で使用する機会が少なく、検討すらつかなかったのか、未記入のまま解答を終えてしまった人が極端に多いのが印象的でした。
面白いのが不正解解答が大きく3つに分けられるということ。最も多かったのが「もものき」、次いで「ひゃくのき」、そして「どうのき」。「栢」という字には「もも」という読み方はないにも関わらず「もも」と読んだ人が多いので調べてみたところ、「栢野(ももの)」という苗字があることが判明!
また、「どうのき」という解答も多かったことに関しては「百目木」と書いて「どうめき」と読む地名があることからの派生ではないかと推測できます。
「栢ノ木」の由来
「栢」という字は「柏」の異体字であるため「柏」と同様に音読みで「ハク・ヒャク・ビャク」訓読みで「かしわ」と読みます。「かしわ」と読むため、柏餅に使用するカシワ(ブナ科)を意味するかと思いきや「ひのき・このてがしわなどのヒノキ科の常緑樹の総称」を表す漢字とのことで、全く別の木を指します。さらに異体字の「栢」を「カヤ」と読む時にはイチイ科の「カヤ(本来の表記は榧)」を指すこともあるようで、とても複雑な漢字です。
由来について永井在住の歴史に詳しい方に話を聞くと、葛西氏に関係があるとの説が!葛西氏の没落時(1590年頃)に葛西氏の家臣たちが再興の願いを込めて門前にサイカチの木を植えたという話は有名ですが、そのサイカチをカヤの木と呼んでいたというのです。実際、栢ノ木の辺りにはサイカチのある家が今も数軒あり(昔はもっとあったという話も)、由来解明なるかと思われましたが、残念ながら裏付けとなる文献資料等を見つけられず、推測の域を超えることはできませんでした。
最も読めない地名第1位の
栢ノ木(かやのき)に行ってみた
「花泉町永井字栢ノ木」は宮城県登米市との県境にあたります(夏川を越えると登米市石越)。行政区は永井3区で「塔婆先集落公民館」のエリアに入っています。
実は住所に「栢ノ木」が入るのは1軒のみ(右写真の囲われた家)なのですが、この家含む数軒のエリアを「栢ノ木」と呼んでいるようです。その名前は市営バスのバス亭にも!
そして栢ノ木の南には「新栢の木」という地名も。地域の人の話によると、圃場整備の際に新しくできた地名ということで、民家は含まれていないようです。
■「栢ノ木」はいつからあった地名か?
『永井村史抄』によると、栢ノ木にある「栢之木八幡神社」は弘治元年3月(1555年)に修造されたという記録があり、少なくともこの頃には「栢ノ(之)木」という呼び名がこのエリアにあったことが分かります。ちなみに、この神社を修造した菅原又次郎道正は、高倉釣野城主・菅原道慶の弟ですが、葛西稙信、葛西晴胤、葛西親信の3代に仕えていたということで、葛西氏とはつながりましたが、葛西氏の没後に家臣たちが植えたサイカチをカヤと呼び、それが栢ノ木の由来…という説からは時系列がズレてしまいました。
なお、安永4年(1775年)の西永井風土記には栢ノ木八幡神社の地主が「栢ノ木屋敷萬作」と記されていることも同文献に記載されており、「栢ノ木屋敷」と呼ばれた家があったこともうかがえます。
《「空鳴ばあさん」伝説》
栢ノ木に関する聞き込みをする中で話題にあがったのが「空鳴山」と呼ばれる小さな山に伝わる「空鳴ばあさん」伝説。厳密には栢ノ木エリアからは外れるようですが、すぐ近くの山です。文献には
「山の頂上附近に住む老婆が居り、旅人が通ると、井戸の傍で空を仰ぎ涙を流して頻りに泣いているので、旅人が不審に思い、訳を尋ねると、孫がこの井戸に誤って落ち助けるすべもないので嘆いて居りますと云う。旅人は同情して井戸をのぞき見るうちに、老婆は機をみて後より旅人を井戸に突き落とし追剥をしていたという。又旅人によっては孫ではなく、銀のかんざしを落としたとか、大切なものを落としたと称しては追剥を働いていた。」
なんでもこの話は実際の史実に基づく伝説のようで、常習的追剥で捕まった人が住んでいた(処刑され絶家)とのこと。それから空鳴山と呼ばれるようになったのだとか(その後ここに屋敷を構えた人が空鳴屋敷と呼ばれるが、追剥をしていた人とは関係がない)。
また、空鳴屋敷の土を持ち帰り、夜泣きする子供の枕へ入れておくと夜泣きしなくなるという言い伝えがあり、遠方から多くの人が土をもらいに来たという記述も。
ちなみに空鳴ばあさん伝説は、永井出身の現在の中高年層は小さい時によく昔話として聞かされていたということです。
《参考文献》
「永井史抄」刊行会(1982)『永井村史抄』
↓実際の誌面ではこのように掲載されております