(idea 2025年2月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
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一関市立東山小学校の授業にて講師を務め、遠藤さんにとっての「伝統芸能とは?写真とは何か?」を話しました(令和4年12月)。
一関学院高等学校から東京農業大学へ進学。卒業後は秋田県内の企業へ就職し、フィリピンへの語学留学を経て、令和2年に地元へUターン。フリーランスのフォトグラファーとして地元で活動しながら、写真教室や情報発信ツールの講師依頼にも対応している。一関市室根町出身・在住。
対談者 フォトグラファー 遠藤凌平さん
聞き手 いちのせき市民活動センター センター長 小野寺浩樹
一般的に「フォトグラファー」とは、広告写真や報道写真、記念写真など、様々な分野の写真を撮る職業を指します。市内で写真撮影を生業とする企業や個人が多い中でも、各地の写真教室で講師を務めるなど露出があり、地域から特に親しまれているフォトグラファーの遠藤さん。活動を始めた背景を聞いていくと、海外を通して気づいた地元への強い想いがありました(2回シリーズの前編)。
小野寺 フォトグラファーの仕事だけでなく、市内や県外で写真教室の講師としても活動されていますよね。昨年担当した講座や、講師を始めたきっかけを聞かせてください。
遠藤 昨年は、一関市立藤沢図書館の「かんたん★ワクワク インスタ講座※1」、一関市室根市民センター主催の「初心者カメラ教室※2」「スマホカメラ教室※3」、JR東日本大人の休日倶楽部が主催する「スマホで楽しむ写真の世界講座」の講師を担当しました。令和4年、企画展を開催していたとき、室根市民センターの職員さんが観に来てくださって「写真教室の講師をやってみませんか?」とお誘いくださったことがきっかけですね。フォトグラファーとしては、令和3年に「町をあるく HIGASHIYAMA MAP」の写真撮影を担当(一部を除く)したことが最初の仕事ですね。
※1 Instagramのアカウント開設から基本的な操作方法や投稿のコツ、写真を撮る際のコツを学べる講座(令和6年2月18日に開催)
※2 一眼レフカメラやミラーレスカメラの基本的な使い方のほか、撮影技術を学べる講座(令和6年9月14日(計2回)、9月27日、10月3日に開催)。
※3 スマートフォンのカメラで撮影する際の設定方法やコツを学べる講座(令和6年10月1日開催)。
小野寺 市内で「フォトグラファー」という肩書をあまり見かけませんが、具体的にどのような仕事でしょうか?
遠藤 肩書は何でも良かったのですが、写真を通して伝える全ての役割を担いたいという想いから「フォトグラファー」としています。お客様には「写真だけが必要な方」と、「写真をどうやって外に発信していくかまでを求めている方」がいます。自分は地元で活動していることもあって、地元の力になりたい気持ちが強く、写真を使うところまでサポートできるよう、デザインやホームページ制作、広報戦略のアドバイスなどもお手伝いしています。様々なタイプのフォトグラファーがいますが、この姿勢は珍しいかもしれません。
小野寺 ほかの写真屋さんとは違った視点で地域を支えているんですね。ところで、フォトグラファーとして活動を始めたのは、つい最近だとか……?
遠藤 はい、数年前までカメラの使い方も分からなかったド素人なんです。地元での活動1年目くらいは、スマホカメラで市内の色んなものを撮り、記事を書いてネット上に発信していました。何も手に職をつけないまま仕事を辞めて、勝手に地元に帰ってきて、勝手に活動を始めた感じです。写真についてのノウハウは宮城県気仙沼市在住のプロに教えてもらい、その他は独学で、現在の活動に繋がっています。
小野寺 写真家というよりも新聞記者の発信方法に似ていますね。地元を出てから現在まで、どのような経緯が?
遠藤 高校から大学は駅伝一筋で、一関外へ出ていた期間は約8年くらいです。高校までは地元との繋がりが薄かったのですが、大学で都会に出て競争の世界に晒される中、諸々を振り払って「ホッと休める場所」が地元だと痛感しました。高校は高校駅伝、大学は箱根駅伝を目指していましたが、いざ終わったら目標がなくなり、宙ぶらりんの状態で。地元に近いところで就職先を探し、自分にとっては未知の秋田県で就職しました。そして、漫然と過ごしていたあるとき、同級生が亡くなったんです。身近な人の訃報が悲しかったのと同時に、「明日って当たり前に来るわけじゃないんだ」とショックも受けました。自分はきっと今死んだら後悔すると感じ、就職して3年目、外の世界を見てみようとフィリピンへ旅行しました。
小野寺 その後、フィリピンへ留学もしたと聞いていますが、旅行で何かを掴んだのでしょうか?
遠藤 そうですね。フィリピンに対して一般的な開発途上国のイメージを持っていたのですが、実際は東京と同じくらい盛んな場所もあって、それを見ていたら、ふと「日本の東北はこのまま持つのだろうか?」と危機感を覚えました。「人口減少が進む地元のために何かしたい」「東北ってまだまだ良さが知られていないな」などと考え始め……。だらだらするより1回挑戦してみたいと思い、英語やホームページ制作の勉強など下準備に1年費やし、次の年に仕事を辞めて留学しました。
小野寺 留学してそのまま残らなかったんですね。
遠藤 実は、インターン先も決まっていたのですが、一旦帰国したタイミングが令和2年2月で、翌月、コロナ禍に突入し戻れなくなりました。次の動きを検討していたとき、向こうの人たちとの会話で、岩手県や地元の成り立ちを聞かれても全然答えられなかったことを思い出して。ちゃんと自分の目と足で地元を見てまわりたいと思い立ち、取材して歩くようになりました。
小野寺 もともと地元の現状に危機感を覚えていたので、情報発信もしていった、と。発信だけでなく、記録としても残りますね。
遠藤 はい。「まちが終わる」のはもうちょっと先だと思うのですが、「この地域をつくっている根本が崩れてなくなっていく」のは、もう始まっていて。その地域のアイデンティティがなくなると、その地域である意味がなくなり、「ここじゃなくていい」という風になっていく。だから、記録して伝えていかなくちゃいけない。
小野寺 そこが日本と海外の違いだと感じています。海外の人は築50年の趣あるアパートに住みたいと言う人が未だにいると聞いたことがあるので、「古いものは大事に残す」という思いが強いのではないかと。
遠藤 フィリピン人はフィリピン人であるというアイデンティティを持っていました。日本人に置き換えたときに、それを持っている人は少ないのではないかと思ったんですよね。日本が評価される部分はちゃんとあるはずなのに、それを日本人が気づいてないのがもったいないなって。
小野寺 日本は高度経済成長期に、古いものは壊して新しいものをつくるという感覚が根付き、地域らしさを失っていったかもしれません。
遠藤 大きく資本が動く部分は、みんな同じ型になっていきます。では、どう差別化していくのか?それは、例えば「室根人らしさ」をつくっているものが、「価値」を生み出せるんじゃないかと考えていて、それらを発信し残す活動をしています。
【後編に続く】