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戦後、現代表の祖父が花巻にて義肢製作業を開業。当時は資格不要の仕事でしたが、義肢装具需要の高まりとともに国家資格に(昭和63年)。息子(現代表の父)の次男さんは昭和50年に一関営業所として現在地に支店を設けると(後に義肢装具士の資格も取得)、平成19年に独立、オオヌマ義肢県南製作所となります。
現代表の大沼拓哉さんは国立障がい者リハビリテーションセンター学院・義肢装具学科を卒業後、鹿児島、北海道、宮城と、複数の製作所での修行を重ね、平成11年に同社へ。コロナ禍の令和2年4月には、その技術を活かし、作業の合間に製作したフェイスシールドを医療現場に寄付するなど、「義肢装具士の倫理」に謳われる社会貢献にも尽力しています。
(idea 2021年2月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
義手・義足はじめ、腰や歩行に関する装具を製作し、身体への適合を行う「義肢装具士」。国家資格であり、医学・工学・理学・社会福祉学等、幅広い知識が必要とされます。
「『お前、腕悪いな』と言われたり、悔しい想いをしたことも多々ありますよ」と苦笑いを浮かべるのは、同社所長で義肢装具士の大沼拓哉さんです。義肢装具士の父の影響で、将来は義肢装具士を志しながらも、一度は工学部に進学したという拓哉さん。「ロボット等の工学分野を勉強してからの方が良いと思っていたけど、『職人』要素の方が強いことに気づき、であれば少しでも早く現場に入るべきだと1年で退学、専門学科に入学し直した」のだとか。
修行の後、平成11年から仕事に厳しい父の元で経験を重ねていきますが、患者の一生を左右しかねない仕事ゆえ、重要な作業に携わることはなかなか許されず、一人で一連の工程を任されたのは資格取得から15年もの歳月が経過した頃だったとか。
「父親には何度も『この仕事が好きか』と聞かれました。今思えば父はこの仕事が本当に好きだったんでしょう。肝臓がんで亡くなりましたが、亡くなる3か月前まで製作を続けていました。それくらいの想いがないとできない仕事ということなんでしょうね」と、拓哉さんは父への尊敬の想いとともに振り返ります。
月に30件程の依頼をこなす同社。製作は医師の処方に伴って行われるため、県南の医療機関を訪問し、患者とのマッチングから始まります。採型(型取り)を行い、仮合わせを行う過程では、実際に患者の自宅等にも伺い、どのような段差があるかなど外部要素も加味するのだとか。
同社には拓哉さん含め3人の職人がいますが、有資格者は拓哉さんのみ。患者に実際に触れて型取り等を行えるのは有資格者のみのため、拓哉さんが作業に従事できるのは月・木曜日のみ。週の半分以上を医療機関や患者宅での調整に費やします。
「例えば足の型取りをする時、患者さんも気になって覗き込んでいたりすると、通常の足の向き(角度)とズレてしまう。でも最初の頃は型取りする部分にばかり意識が集中し、患者さんの姿勢が崩れていることに気づかなかったり。型取りが何よりも大事な工程で、微妙な力加減で良し悪しが決まるのに。義肢装具士は全国的には飽和状態ですが、知識以上に経験が重要なので、作れずに辞める人も多いのが実情」と、この仕事の難しさを語ります。
その上で、同社に見学に訪れたことがある当市出身の高校生(当時)が義肢装具士の専門学校に通っていることに触れ、「20年で一人前と言われる世界なので、その子が資格を取得して戻ってきた時には育てていきたい」と笑顔を見せる拓哉さん。患者やその家族からの「おかげさまでした」という言葉を励みに、岩手県南の「歩く喜び」をサポートし続けます。
同社で製作した装具。脳卒中の後遺症で片麻痺になった人の歩行を補助する装具の依頼も多い。
コルセット用に型取りしたもの。石膏ギプスを使用します。
大沼所長(右)と職人さんたち。3人で多忙な依頼をこなします。
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