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自動化分野(運転補助用車載カメラ、ロボット用カメラ、画像判別用カメラ)、映像分野(写真・動画用交換レンズ、テレビカメラ、プロジェクター)、医療・測定分野(顕微鏡、内視鏡、画像測定装置・分析機)の3分野において、各種製品のキーパーツである光学レンズを製造。大東町渋民地区に本社工場を置き、平成15年にはベトナムのハノイに海外工場を新設、香港には日本とベトナムの拠点サポート事務所(受発注、資材調達機関)を構えています。本社従業員は70名(海外派遣従業員、パート含め)で、男女比は同等。入社時には「DiSC理論(行動特性のバランスで人の動機や欲求、その結果表れる行動を分析)」を用いた分析を行い、個々の適性を活かした職場環境づくりに努めています。
(idea 2022年12月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
光学レンズを使用する双眼鏡など、時に軍も使用し、戦争で使われてきたという側面もある光学機器。日本においては第二次世界大戦中、貿易ルートの途絶により、海外からの高精度な光学機器が入手困難となったため、国内での製造が急務に。以後、光学レンズなど国産光学機器の開発・製造が盛んになります。
昭和19年、現代表取締役社長小川晃弘さん(平成19年就任)の祖父も、地元静岡県で軍の指示をきっかけに備品用途のレンズ製造を担うべく工場を創業することに。戦後は工場の設備を活かし、一般向けのカメラや双眼鏡などのレンズ製造工場へと移行しました(現在は閉鎖)。
この工場で後継者として従事し、のちに株式会社アーアル研究所を創業する娘婿の小川幸一さん(現取締役会長)は、当時の町工場の体質や体制が、レンズ加工技術の発展にはそぐわないと感じ、独立を決意。より合理的にレンズが量産できるよう、当時出稼ぎが多かった北東北3県に着目し、交渉を進めました。
当時まだ30代だった幸一さんの交渉に耳を傾ける地域が少ない中、真剣に耳を傾け、土地の紹介までしてくれたのが旧大東町。昭和49年に設立登記、昭和52年に同町渋民にて工場が操業開始しました。
「コツコツと忍耐強く仕事に向き合える地域性を活かし、出稼ぎに行かずとも地元で技術と収入を得られるような場を提供したかった」と、父・幸一さんがここ渋民を選んだ理由を晃弘さんは振り返ります。
「地域と共存する職場づくり」を推進する同社では、社員有志で地域の神社などの清掃活動を行うほか、平成30年には、同社が製造したレンズを用いた児童向けの工作品「厚紙で作る望遠鏡(太陽系の惑星が見れる本格派)」を大東町内の小学校へ寄贈。児童たちが地元の製造業への関心を高める機会を創出しました。
コロナ禍には、同社が製作したアクリル仕切りパネルを地元飲食店へ無償提供。そのほか「50年もの間お世話になっている渋民に感謝し、地域ならではの文化を守るお手伝いをしたい」と、地元八幡神社の奉納のぼり旗を新調したり、地元保育園に屋内遊具を寄贈(「いわぎんSDGs私募債」を活用しての地域貢献活動)するなど、様々な地域貢献活動を行っています。
「弊社の製品は、販売元が大手メーカーのため、社名は表に出ません。しかし、身近なところで使用され、世界中でも使用されているレンズが、地元渋民で研究開発・製造されていることを知っていただき、従業員たちにも誇りに思ってもらいたい。今一緒に働いている若い世代にも、この先の50年間自信をもって社会・世界と取引ができるよう、環境を整えていくことが私の役目ですね」と今後の抱負を語る晃弘さん。
個々の能力や特性に配慮した科学的な人材育成を取り入れ、世界レベルの製品製造を続けていきます。
代表取締役社長(二代目)小川晃弘さん。
同社が手掛ける光学レンズの数々。社員の研修も欠かしません。
本社外観。工場敷地内には福利厚生用の施設も複数完備。