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明治19年「常州屋」として創業、昭和37年に「株式会社常州園」として法人化。当初は現在のなのはなプラザ付近に茶葉の製造工場も構えていた(現在は旭町に移転)。店舗では茶葉や茶道具、煙草の販売に加え、紙巻きたばこや煙管用の葉たばこを細く刻む「細刻み」の作業も(茨城県水府村産の葉たばこと千厩町の「東山たばこ」をブレンド)。昭和61年、一関市の都市計画による道路整備で店舗をリニューアルし、当時は画期的だったお茶屋での甘味処(抹茶類やソフトクリーム販売)を併設。現代表取締役社長の佐藤正彦さんは同社の5代目。息子が6代目として次期代表取締役を就任する予定で、「今だから伝えたいお茶の効果」の発信にも尽力中。
(idea 2022年4月号掲載)※掲載当時と現在では情報が変わっている可能性があります。
平安時代に始まる日本の「お茶」の歴史。当市に初めて茶葉の加工製造販売を行うお茶屋ができたのは明治19年のこと。初代の佐藤彦蔵さんは、行商先の一関村(現一関市)で目の病気を患い、当地に定住すると、故郷「常陸国(旧国名で、現在の茨城県の大部分)」の別称「常州」から「常州屋」と名付け、現在地にてお茶と煙草の製造販売店舗を創業しました(昭和37年に法人化し「常州園」と改名)。
3代目の篤三郎さん(現代表の祖父)の時に常州屋は大きく飛躍。「お茶屋として最も大事なことは仕入れ。実際に自分の目で見る必要があると思い立った3代目は、茶葉の生産時期には静岡県へと足を運び、お茶農家からノウハウを学びつつ栽培契約を結びました。良質な茶葉を一関に仕入れることができるようになり、茶葉の販売は県内トップクラスとなりました」と、現代表の佐藤正彦さんは当時について語ります。
太平洋戦争で戦時統制が始まり、茶葉の販売にも制限がかかりますが、常州屋は「荷受所」とされたため、県内外からお茶屋が買い付けに来たのだとか。終戦後は、昭和22・23年の大型台風の水害で工場が倒壊し、機械や茶葉も流出。大きな打撃でしたが、新たなご縁で現在の一関市旭町に工場を移動し、現在も合組※・袋詰・輸送を行っています。
※ ごうぐみ。産地や品種、蒸し具合などが異なる荒茶の特長を見極め、ブレンドすること。
現代表が引き継いだ昭和47年からは、スーパーへの卸売を開始。昭和61年には店舗改装とともに、珈琲豆の販売を始め、同時に抹茶類やソフトクリーム販売コーナーも設けるなど、時代とともに「地元のお茶屋」は変化していきました。
小学校の総合学習等の一環として見学の受け入れを行っている同社。「普段はペットボトルの緑茶を飲む機会の方が多い子どもたちに急須で入れたお茶を差し出すと『うわ~美味しい』という歓声があがり、その言葉、その表情がとても嬉しい」と、佐藤さんも目を細めます。
「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と、健康への効能が語り継がれてきたお茶。そんなお茶の効能をより得ることができる「淹れ方」なども伝えるために、同社ではお客様とのコミュニケーションを大切にし、お客様にとっての「ホッとする場所であり続けたい」と語ります。
まもなく6代目(現代表の息子)への継承を予定している同社。6代目は約5年前から営業等の傍らで自社ホームページの立ち上げや、オリジナル商品の開発など、新たな取り組みも始めています。また、「急須でお茶を淹れる」という「日本文化」も大切にしており、市民センター等が開催する「美味しいお茶の淹れ方講座」などの講師を務めることも。
佐藤さんは「若い世代として新たなお茶屋の時代を切り拓きつつ、ここ大町で時代の変化を見守り続けて欲しい」と、お茶と同社の未来に期待を寄せます。
代表取締役の佐藤正彦さん。茶葉は木箱で密封保存している。
同社のオリジナル商品も並ぶ。
急須以外にも手軽にお茶を楽しめる商品を取り扱っている。